大竹 宏(声優) ・時代を創った声(2)
パーマン2号、カッパのカータン、等に出演、今年84歳
いろんな動物の声をしたことがある。
馬が笑う声は難しかったが、何でもやってしまった。
一度時代劇で犯人を知っているカラスの役をしたことがあるが、高尾山に行って研究したりした。
NHKの最初のラジオに出たのは熊の役でした。
6歳ぐらいの時に映画館に連れて行ってもらって、名子役テンプルちゃんにあこがれて、チャップリンンにもあこがれた。
昭和20年明治中学に入った時に、焼け跡整理をやって浅草の芝居の優待券を貰って、当時鞍馬天狗は嵐寛寿郎の映画だったが、その時の演劇は杉山昌三九さんが鞍馬天狗をやっていた、あの戦争中に商業演劇をやっていたのに驚いた。
水の江滝子、ターキーのミュージカルもやっていた。(戦意高揚劇)
芝居をやりたいと思った。
戦争も終わって、演劇部に入り、高校では部室を勝手に作って、演劇部を掲げる。
高校2年、3年は全く勉強しなかった。
卒業して2年目にはNHKのラジオに出て「チロリン村とくるみの木」にでいました。
高校卒業後、劇団ちどりに入り、内田研吉さんんという素晴らしい先生に出会った。
大道具、小道具すべて私一人で作りました。
先生のアシスタントとなり、毎日NHKに通いました。
先生は37歳にして亡くなってしまいました。
医師からは貴方一人に言っておくがもう命がないと言われたました。
人形劇『アシンと13人の盗賊』 盗賊の親分の一の子分の役を行う。
その後「チロリン村とくるみの木」に選ばれ、8年半つづきました。
人形劇の楽しさを幼児番組に加えたら面白いのではないかと、人形劇そのものを「ピンポンパン」にとりいれた。
アイドルを出そうと言う事で、アイドルの下絵を書いてほしいと言われて、熊とカンガルーを書いたが採用されず、或る方が河童の絵を描いて河童で行く事になる。
着ぐるみに入る様に言われたが、始め拒んだが、おだてられてやることになる。
汗がでてきて、大変だった。
グロテスクなデザインで子供らは出たとたんに怖がっって失敗、かわいくデザインし直して再出発した。
いろいろ苦しいことが有ったが、それは我慢と、子供に応えることでした。
着ぐるみは自分の最高のメーキャップだとおもうようになった。
そのうちに足が動かなくなり、ピンポンパンが始まって16年目に辞める事になります。
カッパのカータンには14年入っていました。
いたずらが好きでいろいろやりました。
「チロリン村とくるみの木」で出演の時に、細かくしたマッチの軸に息を吹きかけていて、色が変わると言って、その女性に息を吹きかけてくださいと言って、唇に寄ったところで下からぽんとやって、細かくしたマッチ棒が口の中に入り、その女性はあたりかまわず吐き出しました。
当時ガリ版で読みにくい文字があり、私が書き直して、その通りに読んだら、それは放送禁止用語だった。(タヌキの・・・、キツネの・・・)
ボランティアで保育園に行って即興で作ってやったりしまいます。(毎月1遍行きます)
子供と話をしているとアイディアが生まれます。
若い声優に言いたいのは、好きな道なので、のめり込めばいい、上達しようと努力する、人がやらないことをやる、それを自分が考える。
今できなくても磨いていけば絶対損はしない、飽きずにやる。(今の若い人は直ぐ飽きる)
あくまで今日が出発点です。