2016年2月1日月曜日

山口道孝( 神父)        ・アジアの人に恩返し

山口道孝(鎌倉・カトリック雪ノ下教会 神父)  ・アジアの人に恩返し
アジア7カ国で主に政治の目が届かない人達の支援の為に、年に80回は飛行機に乗るという異色の神父さんです。
お父さんはシンガポール育ちの商社マン、2人のお爺さんは軍人と商社マンで、共にアジアを中心に活動した関係で、アジアにはなじみがあった事と、日本が戦争に巻き込んだアジアの人達には常々恩返しがしたいという気持ちがあったことから支援を始めたという事です。

最初タイに行ったと思います(タイとカンボジアの国境の戦場のタイ側)。
1979年~80年にタイに数十万人の難民が出た時です。(ポルポト政権が倒れて、ベトナム軍が進駐し始めて内戦がひどくなった時) 
そこは難民が2万5000人収容されていて孤児院があって650人の孤児がいて、突然そこに行って、子供達の面倒を見てくれとの誘いでした。
14歳~16歳の男のグループ30人位で、何でもいいからやってほしいとの事だった。
中には目の中に爆弾の破片が入っている様な子もいました。
纏めるためには何をしてもいいと云う事でした。(言葉も判らなかった)
チャンタラちゃんという女の子がいて、口もきけない、笑う事も出来ない、大人が来ると逃げてゆく、頭はしらみが湧いている様で、彼女は両親兄弟を目の前で殺されて、一人だけ放置されていたのを他の家族が助けてキャンプまできたという事でした。

私がマラリアで熱があってハンモックで寝ていましたが、チャンタラが私のおなかによじ登って寝ていました、考えられないことでした。
他のスタッフが吃驚して写真まで撮ってくれました。
次の日、今まで声も出なかった子がわたしのところに走ってきて、笑ったんです。
2日目から声が出るようになって、周りの子供とは声を出す様になって、そののち「小さなチャンタラ」という絵本を出しました。
世界中に難民は沢山いるし、親を目の前で殺された子供達は沢山いるわけです。
そういう人たちに気をかけて、何もできないけれども一緒にさせてくださいという様な、上から目線でなにしてやろうかということではないかと思います。

次はヨーロッパに留学した後、フィリピンに行きました。
ドイツのミュンヘン、建築の勉強をしたいという事で行きました。
ドイツはトルコの移民が多く入り込んできた頃でした。(ドイツの東西は分かれていたころ)
ベトナム、東欧からの難民もいました。
難民との出会いもそこでありましたので、留学が終わったらアジアに戻ったらそういう人を忘れない仕事をしたいと思っていました。
都市計画、地域開発で何かできるのではないかと思っていました。
36年前の事でした。 (現在57歳です。)
ODA 援助の仕方に多少疑問を持って、ほんとうに貧しい人たちへの援助になっているのかなあと思って、単身修行に行きたいと思って、フィリピンに行きました。
マルコス政権の一番酷い時でした。
修道女たちがおられる、北部ルソン島のイサベラ州に行き、2年間そこにいることになりました。
年に何回か日本に戻り募金活動をして、支援の支えをしました。

軍事政権と教会とは対立がつづいていて、私の友人の農村のリーダーの5人位は殺されました。
カトリックの神父さんになれば、もうちょっと力が出せるのではないかと思い、相談に乗っていただき、神父さんになる事を目指していこうと思って、日本に帰って神学部で勉強を始めました。
4年日本、3年インドで勉強して、その間も援助活動はやってきました。
神父になってからは、ベトナム、ミャンマー、東ティモール、インドネシア等。
事情はそれぞれ違うが、共通して言えるのは医療、教育、生活の向上、雇用等。
地場産業を起こす、地元の政府と連携して収入の向上を考える。
魚の乱獲をしないで、海藻を一緒に育てることで収入の向上を計る等。
東南アジアは戦争中日本軍がいっていたところで、フィリピンでは52~23万人の日本人が亡くなっていて、地元はもっと亡くなっていると思う。
親しくなってくると日本人に殺されたという様な話をする様になってくる。
和解が出来るなら和解したいという気持ちを持っています、もめたということはないです、いい出会いばっかりです。
中国で多くの人が殺されて、何しに来た、とある老婆からいわれたことがある、反発が全くないわけではないが、ごめんねと言うしかなかった。

知識としてバックグラウンドが入っていないと、すっとは動けないと思う。
日本の人達は割とアジアの歴史を知らない。(太平洋戦争だけではなくて)
事実は受け入れて、もっと相互理解してゆく必要がある。
ベトナム等は戦争による障害者の子供たちが多い。(戦争の後遺症)
南北が統一された後も、北部ベトナムは貧しく、出稼ぎでの差別、仕事がなかったり、子供を捨てる結果になったり、ギャングが入りこんで麻薬を売りつけたりして、HIVエイズの人たちが増えてゆく様なことがある。
貧しい人がよけい状態が悪くなってゆく方向につながってゆく。
政府機関では目が届かなく、草の根的な人達の方が現状が判る場合が多い。

大学生の時に日本に難民(ボートピップル)がきて、(1976年頃)第三国に移る間実家のすぐ近くの施設があって、そこに難民が入ってきて、多くの人がカトリックの信者で教会に来るようになって出会いがありました。
他の国の文化、戦争での難民に接して、ショックだった。
日本の船に会えたが、無視されたとか、追い返されるような行動に出会ったとか、何十回も聞かされました。
日本ももっとたくさん受け入れる必要があるのではないかと、痛みを共有することを考えていかないけないと思う。(金だけ出せばいいという事ではなくて)
少しは受け入れの状況が変わりつつはあるが、国を追われる辛さを共有してゆく必要があると思う。

戦争、災害でTV報道されたところは募金が集まるが、そのとなりにはいかないという様な事を沢山見てきましたので、そのようにはならないでほしいと思います。
仲間を増やしていってその地域の気持ちになんとかなってゆく事が大事だと思います。
もっと日本国内の事をもっとやった方がいいのではないかとの声もあるが、役割分担だと思っています。
今、福島に月1回ぐらい訪ねているグループが一杯あって、その中には海外で一緒に働いていた人もいます。
そういった人達と接してネットワークが広がってくると思います。
風評被害で困っている農家の野菜の販売を援助しているグループもあり、活動しています。
最終的には一番大変な状態にある人達が自分たちで幸せを感じるというためにやっているので、生きていてよかったと思う事に繋がるのがプログラムだと思いますので、そういう意味ではどこで活動していても共通だと思います。
ビジョンを広く持つという事が楽しい、いろんな人、いろんな文化に出会う、知らなかった歴史を知る、それで自分が学ばせて頂いているし、それが役立つのであればずーっとして行きたいです。
①環境を守る。
②平和を構築する。
③人権を擁護する。
この3つはどのプロジェクトをやっていても大切に進めなくてはいけない事だと思います。