木原活信(同志社大学教授・社会福祉士) ・神は弱さの中にあり
50歳 同志社大学大学院まで進み社会福祉を学んだあとカウンセラーを経て大学の教員になりました、海外に留学し、今は母校で福祉の道を志す学生を教えています。
これまで30年近くフィールドワークを続けながら社会福祉の研究と実施に取り組んできました。
自らの活動を、援助する側される側双方の弱さと向き合う歩みと捉えるようになりました。
強さや能力が求められる現代社会において、人間の持つ弱さに意識を向けることが大切だという木原さんに伺いました。
「弱さ」 例えば教師をしていたら、カッコよくしたいが、その像を映したいと思うが、そうすればするほど学生との距離は離れてくる。
自分自身の失敗した経験をしんみり話したことがあるが、非常に食い入るように聞いて近づいたなあと感じました。
人と違っているということは嫌な感じに周りから思われ、言われたくない故に、神様にお祈りしないといけないとの思いとの葛藤があり、周りから言われるのが嫌で手を合わせて瞬間で祈ったという形をしたという事を、話をすると、子供達の輝く様な目をしており、きっと同じつらい経験をしているんだなあと、共感というか、それはもしかしたら、自分の弱さをあえて言う事によって近づいてゆく事があるのではないかと思います。
少年時代、青年時代は強さにあこがれて、強いことが私にとって憧れだったと思いますが、自分の人生を振り返った時に、自分のはかなさ、虚しさ、弱さとかに跪く方がいて、その時初めて神様の力、恵みを感謝する事が私の人生の中でありました。
ある種自分の弱さに気付き、弱いんだと言っていいんだという事を今はつくづく感じて、イエスキリストと重なり、イエスキリストは弱さに同情できない方ではなくて、自ら苦しみ、試練に会い、弱さを体験し、其中にあるからこそ同情できる方だと痛感しています。
第二コリント 12章でパウロが言った言葉で、「しかし主は私の恵みは貴方に十分である、というのは私の力は弱さの内に完全に現れるからであるといわれたのです。
ですから私はキリストの力が私を覆うために寧ろ大いに喜んで、私の弱さを誇りましょう」
弱さの内に完全に現れるということは、強いということは逆に言うと神などは必要ないという事になり、私は貴方に頼らないと生きていけないんです、という弱さ、弱さの内に神様の力が完全に現れるという事を、啓示されたというんですね。
それを受けて彼は私はキリストの力が私を覆うために、寧ろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
貴方は弱いままでいいんです、その弱さを自覚したら、覆ってくれるキリストの力が完全に覆うんだ、だからこそおおいに喜んで、私の弱さを誇りましょうと云っている。
弱さは福祉で言うと、人間共通のものとして、援助する人間、支える側の弱さを身にまとっているものを相手に見せることによって、近づきやすくなる。
本の中に「自分自身が持っている傷が、人を癒す」、という逆説的な話をしているが、聖書の中のイエスの姿の中に明らかにされているのではない哉と思います。(ヘンリ・ナウエンの本)
昭和40年福岡県で産まれる。
誕生には両親の大きな決断がありました。
アルバムの冒頭に母の寄せ書きがある。
先生は生むのを反対、私たちは神様におゆだねし祈りつつ、貴方を生んだのよ、死ぬはずだったのに生まれたから信じて生きるという意味で「活信」と付けた、という様な内容が書かれている。
お腹にいる命は神様から与えられた命なので生みたいと言って、結果的には産まれてきました。
単純に愛おしかったという話を聞いて、嬉しかった。
高校卒業して同志社大学に入学、両親から独立。
父から分厚い聖書を貰ったので、改めて本気で読んでみようと思った。
自分の信仰は必死で神様にしがみついている様な信仰だった。(一方的な生き方)
人に厳しくなっていたと思う。
聖書を読んでいるうちに、しがみつくのではなくて、抱きかかえられているような姿だと思ったら、感謝と喜びの方がでてくるように思います。
今から25年前大学院で学んでいるころ、嶋田啓一郎先生に、社会福祉における愛という事に対して悩み、探究していたので先生に尋ねたら、「キリスト者として愛するというのは、愛せない、というその自覚から始まる愛のことだと思います。それが世俗の福祉があるならば、違うというのならば底が根本的に違うのではないでしょうか」と言われた。
愛する事だと思っていたが、愛する事が出来ないという自覚から始まるという事を言われた時は一瞬頭が白くなった。
聞く事も出来ず、私なりに見つけた答えですが、愛せないという自覚はある種、自分の無欲、自分の弱さに自覚と言ってもいい、自分の中の力が完全に弱い時にこそ神がそこに働く、という風に思いました。
自力、自己中心的なものの信仰的生き方の中にしか生きてなかったのではないかと思いました。
だからこそ私は神様に助けてもらわないと生きていけない、私は神様に助けてもらわないと人を愛することのできない、自己中心な人間だと、おこがましい人間だったと神様どうぞお許しくださいと、祈りを若い時分ささげたことが私の転換点だったと思います。
1995年広島の女子大学に講師として迎えられる。
或る学生から相談を受けて、これが自分で抱えている苦しみや弱さと向き合うきっかけになりました。
彼女が19歳の時に、自分の父親が自殺したとの事で、「先生どうしたらいいですかね」と言われて、
心の叫びだと思ったが何も答えられなかった。
自分なりに引っ掛かっていたことでもあった。
25歳の頃、わたし自身が、親戚で慕っていた方が自殺していました。
問いと共鳴する部分があり、共に苦しむ、共感共苦、傍観者とならない部分がある。
聖書の物語の中に、あわれむという言葉は、自分の体まで断腸の思いで痛む、という事がある。
自分の痛み苦しみ、弱さはむしろ分かち合うという事の中に光が見えてくるのではないかと思います。
キリストが処刑されたのちに、弟子たちは不安でしょうがなかったが、復活したイエスが入ってきて、
手と脇を示された、生々しい傷があるが、弟子たちはそれを見て喜んだとあります。
そこに真の慰めは、そういうところから来るんだと思います。
弱さを抱えていない人などいない、人間それぞれが持っている弱さを互いに認め合う事で、助けを必要とする人々の尊厳が守られ、自立を支える優しい眼差しが生まれると考えています。
社会の中が強くあらねばならないと歯車の中について行こうとする人間の姿があり、みんな煽られてゆく、そういう世相の中で、福祉社会にあっては尊厳と自立という事があるが、自立とは何なのか、弱さを認めたうえでの自立で有ればいいが、強さを求める様な自立は、さらに追い詰めるのではないかと危惧しています。
存在するという中に価値を見出すことが必要なのではないか。
何かする、何かを達成したから評価するという事ではなく、ある種神の眼差しだと思います。
私は「弱さ」を強調したい。
社会の静かな変革に繋がってくると信じています。
宮澤賢治の「アメニモマケズ」 最後には「みんなにデクノボウと呼ばれ褒められもせず苦もせずそういうものに私はなりたい。」とあるが、デクノボウは役に立たないという様な思いがあるかもしれないが、そういう生き方こそ自分の弱さを身に負って、そういう生き方の中に現代が見失っているなかに、メッセージを呼び掛けているのではないでしょうか。