奥田豊治(入市被爆者) ・被爆の実相を語り継ぐ
奥田さんは88歳、原爆が投下された後に広島に入り被爆した入市被曝者です。
奥田さんは山口県下関市で少年時代を過ごし、旧制中学4年の時に陸軍予科士官学校の試験を受けました。
昭和20年8月6日奥田さんは自宅に来た憲兵に広島に行けと言われ、列車で広島に向かいました。
3日後の8月9日広島に入った奥田さんは、被爆した街の惨状や人々を目撃しました。
奥田さんは家族を含め自分の被爆体験を語ることはありませんでしたが、75歳の時に初めて公の席で体験を語り、以来被爆の後遺症と戦いながら体験を伝えることに力を入れています。
子供時代は友達と原っぱを駆け回る普通の少年でした。
小学校の2年生の時に日中戦争が始まって、まもなく南京陥落の提灯行列とか旗を振って出征兵士を送るとかしていました。
15歳の時に陸軍予科士官学校の試験を受けました。
陸軍予科士官学校は陸軍の幹部将校を育成する学校です。
一次試験に合格して、憲兵が来て親戚等々の調査をしました。
満足に中学に行ったのは1年だけで、2年になると1週間は農村に泊り込みで作業して1週間学校に帰るというような生活で、3年生になると工場に行きました。
ジュラルミンの素材、パイプをつくる工場でした。
夕方家にいたら憲兵が見えて広島が大変なことになって君もすぐに来いと言われました。(6日)
1945年8月8日朝列車に乗り込みました。
フッと目が覚めた時に暗くて西広島駅(当時己斐(こい)駅)であたりを見ると、ホームはあるが駅舎はボロボロでした。
次に目が覚めたのが、横川という駅でここは何にもありませんでした。(爆心地から2.5km位の処)
焼夷弾によるものとは全然違う感じでした。
山を見ると山肌が焼けていて一体何なんだろうと思いました。
太田川の鉄橋にさしかかり、下を覗いてみたら真っ黒くなってパンパンに膨れ上がった沢山の馬でした。
広島駅は壁だけが残っていました。(9日の朝)
陸軍中国軍司令部が広島城の中にありそこに行こうと思ったが、一面ぐしゃっと上からやられた光景でした。
まわりには聞く人もいなくて線路を歩いて行きました。
電車のモーターの銅線が溶けた光景を見て、いったいどんな熱なんだろうと思いました。
電車はがらんどうでした。
人の焼ける臭いがして来て本当にいやな臭いでした。
街の中の様子はペチャンコになっていて何にもありませんでした。
ところどころに鉄筋コンクリートがあるだけでした。
広島城にようやくたどり着いたが、なにもありませんでした。
将校がいてこういう訳で来たと説明したが、「今こられてもなんにもわからん、直ぐ帰れ」と言われました。
いっぺんに気が抜けてしまいました。
気が付いたら凄く喉が渇いてました。
水を探しもとめていたら、蛇口を見付けチョロチョロ出ている水を飲みました。
そこに座ってフッと見ると今でいう原爆ドームがありました。
焼けたボロが一杯積んであると思ったら原形をとどめない亡骸で、それが沢山ありました。
一体何なんだろうと思い吃驚しました。
空襲で焼かれて亡くなられた方は下関で何体も見ていて神経が麻痺していたが、それでさえもえーっと思うほど酷い状態でした。
とにかく下関に帰ろうと山の方へと歩き始めました。
まわりは地獄絵図でした。
私の前を棒きれを持ってヨタヨタと歩いている小学4,5年生を見ました。
シャツが破れて足の処に覆いかぶさっていると思ったら、背中の皮膚が剥げ落ちていて「お母さん、お母さん」といって歩いていました。
軍国主義にすっかり洗脳されている私が「戦争がいやだな」と思いました。
なんとか広島駅に着きました。
操車場があり貨車が一杯止まっていて、石炭を積む貨車があり、筑豊炭田に行くに違いない、下関を通ると思ってよじ登り疲れ果てていたので眠ってしまいました。
気が付くと貨車が動いていました。
大竹という駅がありもうすぐ山口県だと思ってまた眠ってしまいました。
親には広島でのことはどういう訳か詳しいことは話せませんでした。
8月15日 工場に行っていて作業をしている時に、重大放送があるので集まれという放送があり、聞いていたが何にも判りませんでした。
当時工場には1万2000人程度いました。(中学生、女学生がほとんど)
中央広場に全員が集められ、所長から日本が無条件降伏したという天皇の放送が有ったと知らされました。
愕然としました。
占領軍が来たら一矢報いようと友達と話し合ったりしていました。
アメリカ軍が入ってきてジープのスピードとライトの明るさに吃驚しました。
軍を初めとする人達に自分たちは騙されていたということが段々強くなりました。
大学に行って会社で会社員、役員として第一線で仕事をしてきました。
必死になって働いていて自分の体験を話すことはありませんでした。
長崎に3年間生活して、改めて原爆の事を思い知らされて、体調にも変化が出てきて被曝の事を思い出し、且つ実感するようになりました。
高校生の男女が観光客に対して被爆の話をしていて吃驚しました。
祖父母などから聞いていたとの事だった。
伝えなければいけないことだから話をするということでした。(71歳の時)
自分で被曝をして被爆者手帳を持っているのに何にもしていないということで、本当にこれでは駄目だと思って自分も外に向かって話をするようにならなければいけないと思いました。
本格的な動きは東京に帰って来てからで75歳になったころからでした。
江戸川区原爆犠牲者追悼碑が40年前に出来て、その翌年から追悼式があり被爆体験を話すことがあり、当時の会長から話をして欲しいと言われて初めて話をしました。
伝える責任と義務があると思います。
私が江戸川区の被爆者の会長になって、ある中学校に行って全校生徒に話をする機会がありました。
フッと見たら女の子が泣いていてちょっと伝わったのかなあと嬉しかったです。
今があるということは戦争が無いからです。
そのことを先ず判ってほしい、当たり前と思うかもしれないけれども決して当たり前ではない。
核兵器を使ったら地球はそれこそなくなってしまう、どんなことが有っても戦争はしない、平和を守ろうよと云うのが私たちの願いだし、それを伝えて行きたいと思っています。