2018年8月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者}           ・【絶望名言】宮沢賢治

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】宮沢賢治
「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」

宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、注文の多い料理店』とか沢山の童話でよく知られています。
『雨ニモマケズ』という詩も有名です。

フランツ・カフカの名言集を本で出した時に、読んだ方からカフカは宮沢賢治とよく似ていますねという反響をかなりの方から頂きました。
読んでみたら似てるんですね。
父との確執、妹を凄く好きという所も似ているし、二人とも菜食主義ということです。
二人とも生涯独身で子供もいなかった。
二人とも生前は可成り無名に近くて、サラリーマンをしていた。
二人とも若くして結核で亡くなった。
亡くなる前に自分の原稿を処分してほしいと遺言した事も同じ。
死後に頑張ってくれた人がいて、今ではとっても有名、ということも同じです。

清六という弟がいたが、宮沢賢治に関する本を書いているが、「正面陽気に見えながらも、実は何とも言えないほど悲しいものをうちに持っていたと思うのである」、と言っている。
イーハトーブは地名で宮沢賢治の理想の世界で、イーハトーブに対して宮沢賢治はこう説明している、「そこではあらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し、大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花盃の下を行く蟻と語ることもできる。罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている。」と言っている。
理想郷なのに罪や悲しみが有る、だけどそこでは罪や悲しみでさえそこでは清く綺麗に輝いている訳です。
これが宮沢賢治の作品の特徴なんではないでしょうか。

「私のようなものはこれから沢山できます。
私よりもっともっと何でもできる人が。
私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから。」
は童話の中の作品の中の言葉ですが、宮沢賢治自身にもこのような気持ちが有ったのではないでしょうか。
自分は人のように上手く生きられず、立派でもなく美しくも無く、仕事もうまくいかず、ちゃんと笑えていなかったんじゃないか。
誰の心にもこいう気持ちは多少なりともあると思います。

「お前たちはなにをしているか。 やめてしまえ。  エイ、解散を命ずる。
こうして事務所は廃止になりました。 僕は半分獅子に同感です。」
(寓話「猫の事務所」の最後のシーン)
「猫の事務所」のあらすじ
猫の事務所には大きな黒猫の事務長、一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫、そして、四番書記のかま猫(釜猫は夜竈の中に入って寝る癖があるから釜猫という) がいる。
竈はいつも薄汚れているので釜猫は煤で汚れている。
優秀だったのと事務長が黒猫だったので黒く汚れている釜猫に寛大だったので、本来なれない第四書記になっている。
かま猫は三人の書記にいじめられながらも、黒猫の支えやかま猫仲間の応援もあり、仕事に励み続ける。
或る日かま猫が風邪をひいて事務所を休んだ日、三匹の書記の讒言により、黒猫もそれを信じてしまう。
病み上がりでかま猫がやってくると、黒猫の事務長含め全員がかま猫を無視してしまう。
かま猫は仕事を取上げられて呆然と座って泣き出してしまう。
そこでさっきのラストがやって来る。
外から獅子が見ていて辞めてしまえ、という事になる。
最後に語り手が急に顔を出す。(宮沢賢治自身)
僕は半分獅子に同感です。」と云うんです。

いまあるパワハラ、差別、いじめとかそういうものそのまま。
なんで半分しか賛成していないのか、色んな説がある。
解散ではパワハラとかの根本的な解決策にはならない。
かま猫も職を失ってしまうので、半分なのではないかという説がある。
「猫の事務所」には下書きがあって、「みんなみんなあはれです。かあいさうです。かあいさう、かあいさう。」となっており、発表版とは大きく異なっている。
3匹の猫も可愛そう、事務長も、獅子もかわいそうと言っている。
虐めの加害者だけではなくて加害者も黙認した人もそれをしかりつけた人も全員がかわいそうというんです。
だれの心の中にも加害者側の気持ち、傍観者の気持ち等がある、どこか全部弱さだし、良いことではない、人間はそういう弱さを持っている、だから可愛そう。
やってしまう方もやられてしまう方もみんな人間は哀れで、可愛そうなもんだなあと思います。
罪のないものだけが石を投げろと言ったら、誰も投げられない、それが悲しいということではないですかね、だから半分なんでしょうね。

自分がいじめる側に立ってしまったことから、成長してからそういうことをしないようにしようと繋がった面がある、反省する気持が自分を止める気持ちに、それが後あと大人になってあった。
*「G線上のアリア」
「永訣の朝」を書く時にこの曲を聞きながら書いたんじゃないかとも言われている。
演奏時間に合わせて「永訣の朝」は書かれているという説もあります。

「永訣の朝」 宮沢賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
うすあかくいっさう陰惨(いんさん)な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)→(雨雪を取って来てちょうだい)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
(どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変わって  改訂版)
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

37歳で宮沢賢治亡くなっているが、残したした作品の分量は大変なもの。

「カンパネルラ 又僕たち二人きりになったね。 何処までもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか百遍焼いてもかまわない。
ウン 僕だってそうだ。 カンパネルラの眼には綺麗な涙が浮かんでいました。
けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。 ジョバンニが言いました。
僕わからない。カンパネルラがぼんやり言いました。
(「銀河鉄道の夜」の一節)
ジョバンニが持っている切符はどこまでへもいける特別な切符。
何を探すのかというとほんとうの幸い。
ほんとうの幸い、宮沢賢治の作品の全ての根底にあるテーマかもしれません。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか遍焼いてもかまわない。」
その前にサソリの話が出て来る。
サソリは色んな虫を食べて生きているが、或る日自分がイタチに食べられそうになって、井戸に逃げて溺れそうになりながら、以下のようなことを言う。
「ああ、あたしは今まで幾つもの命を取ったかわからない。
そしてその私が今度はイタチに取られようとした時はあんなに一生懸命逃げた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああ、何にも当てにならない。
どうして私は私の体を黙ってイタチにくれてやらなかったろう。
そしたらイタチも一日生き延びたろうに。」

サソリ食べられた側の気持ちが判ってしまう。
むなしく命をすてるのではなく、誰かのために生きたいと思うと、サソリの身体は真っ赤な美しい火になって燃え始める。
気が付くと夜空にいて、闇を照らして星になれた。
自己犠牲の素晴らしさを物語っている。
僕はもうあのサソリのように本当にみんなの幸いの為ならば、僕の身体なんか遍焼いてもかまわない。」と言っている。
本当の幸いはこれだ、という様になった時にジョバンニは
「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。」 とジョバンニが言って
「僕わからない。」 カンパネルラがぼんやり言いました。
この展開は凄い。
本当の幸い、自己犠牲の素晴らしさを物語っていながら、本当にそうなのかなという迷いが出て来る。
「僕わからない。」というカンパネルラは実は自己犠牲をしてる、なのに「僕わからない。」と言っている。
本当の幸いは一体何なのか、いくら追い求めて見てもやっぱり本当は何だろうと問わずにはいられない、そうしてみると「やっぱり僕判らない」って答えるしかない、ここが宮沢賢治の凄いところではないかと思います。
「新たなるよき道を得しということは、ただ新たなる悩みの道を得しと言うのみ」
新しくいい道を知ったと、真実の道、本当の幸いの道だと知ると、新たなる悩みの道を知ったということなんだと、これがいいんだと思ってもでも本当にそうなのかなと思う。
何処までも迷い続ける。

河野:歳を取って来ると、朝起きて手が動き水も飲めると言う事に幸せを感じる。
頭木:若い時には大きな幸せを考えるが、病後はハードルがずっと下がって来る。
朝起きて何処も痛くなかったりすると大変な幸せを感じるわけです。

「僅かばかりの才能とか、器量とか身分とか財産とかいうものが、何か自分の身体に付いたものでもあるかと思い、自分の仕事をいやしみ同輩をあざけり、今に何処からか自分をいわゆる
社会の高みへ引き上げに来るものがあるように思い、空想にのみ生活をしてかえって完全な現在の生活をば味わうこともせず、幾年かが虚しく過ぎてようやく自分の築いていた蜃気楼の消えるのを観ては、ただもう人を怒り世間をいきどおり、したがって親友を失い幽門、病を得ると言った順序です。」
(1933年9月11日に元の教え子に書いた手紙の一節 亡くなる10日前の最後の手紙)

文語詩
「いたつきてゆめみなやみし」
病気になってしまい夢はみんな終わった。
私(頭木弘樹)が20代、30代病気で過ごして、そこから社会に出るのがきつく、こういう人生でこれだけで、この歳で何も起きないなあと思うと泣けたりしました。

元の教え子に書いた手紙の続き
「風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話が出来るとか、自分の兄弟のために何円かを手伝えるとか言うようなことは、できないものから見れば神の技にも等しいものです。
そんなことはもう人間の当然の権利だなどというような考えでは、本気に観察した世界の実際とあまり遠いものです。」 (亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
賢治は病気になって日常が奇跡だという様な事をしみじみ感じる訳です。
そんなのは当然と思っているのは間違いで、実は大変貴重な人生、日々を送っていたという事に思いいたる。

元の教え子に書いた手紙の続き
「どうかいまのご生活を大切にお守りください。
上の空でなしにしっかり落ち着いて、一時の感激や興奮を避け楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」亡くなる10日前の最後の手紙の一節)
「苦しまなければならないものは苦しんで生きてゆきましょう。」と言う人はなかなかいない、まさに自分が苦しんでいるのに。
1933年宮沢賢治が亡くなる。