2018年8月6日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)   ・【近代日本150年 明治の群像】大槻文彦

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)   ・【近代日本150年 明治の群像】大槻文彦
講談師 神田 蘭
日本で初めて近代的国語辞書『言海』を編纂した大槻文彦

講談による紹介
弘化4年(1847年)江戸木挽町に生まれる。
祖父に蘭学者の大槻玄沢、父は洋学にも通じた儒学者・大槻磐渓
子供のころから勉強好きだった。
明治8年28歳の時に文部省に勤めているが、上司から編纂を命じられる。
「一国の国語は外に対しては一民族たる事を証し、内にしては同胞一体なる広義感覚を固闋せしむるものにて、すなわち国語の統一は独立たる基礎にして独立たる標識なり」と述べる。
一つの語の語源を調べるために知っていそうな人を探して尋ね歩いたり、方言について尋ね歩いたり、本を直ぐに買えるように常にお金を持ち歩いていたようである。
編纂にあたって引用した書籍は3000巻にものぼったそうである。
17年間を掛けて、日本初の国語辞書『言海』が世に出る。
その間に娘が脳膜炎で亡くなったり、妻が腸チフスで亡くなったりした。
昭和3年まで生きていた。

祖父の蘭学者の大槻玄沢は杉田玄白前野良沢 から可愛がられた弟子一字ずつ名前を取ったという。
「玄」「沢」
当時公用語は漢文。
仙台で大槻磐渓は奥羽越列藩同盟の理論的指導者と言われている人。
大槻磐渓が育てた人物としては但木土佐、玉虫左太夫とか奥羽の戦の張本人として断罪になっている。
弘化3年(1846年)アメリカ東インド艦隊司令長官ビドルが浦賀に来て通商させろと来たが、幕府は拒否する。
嘉永6年(1853年)ペリーが浦賀沖に来て日本に開国を迫って、翌安政元年には日米和親条約を結ばざるを得ない状況になる。
大槻文彦は文久元年(1861年) 15歳になり林大学守の門に入る。
16歳で洋書調べ所に入学。
当時教えていた人、オランダ医学長老の箕作阮甫(みつくり げんぽ)、西周 津田真道、加藤弘之らがいた。
勝海舟が箕作阮甫(みつくり げんぽ)先生に弟子にして欲しいと言ったが、外国語は努力が必要だといって、江戸っ子はすぐ飽きるから駄目だと言って、門前払いになったとの事。
当時は蘭学から入って英語を学んでいった。

大槻文彦は文久2年10月、仙台に向かい、仙台藩 養賢堂に入学。
翌年17歳で主立(助教)になる。
慶応2年江戸に向かう。
戊辰戦争で父親が捉えられてしまう。
仙台藩が降伏して奥羽越列藩同盟が崩壊して、首謀者として捕まってしまう。
大槻磐渓が育てた但木土佐、当時秀才として鳴り響いていた。
玉虫左太夫、第二の坂本龍馬と言われていたが、次々に死罪になる。
兄大槻如電とともに父の助命嘆願に奔走することによって、父は助かる。
大槻文彦はさまざまな学問分野に優れていた。
大学南校を経て1872年に文部省に入省。
日本は独立国であるし、西欧列強ともちゃんと付きあっていける国だと言う事を明治政府は海外に対して言ったわけで、言語は非常に重要になってくる。
日本の言葉をきちっと定めなくてはいけなかった。

それまでは藩ごとの言葉が有ったし、町人言葉などがあった。
最初に英和辞書を作るように言われる。
文部省師範学校に行くように言われて、仙台にも師範学校を作ることになりそちらに向かうことになる。
明治7年に東京に戻ってくる。
1875年に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられる。
1886年に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、政府にはお金が無いということで1889年5月15日から1891年4月22日にかけて自費刊行した。
収録語数が3万9100あまり。(現在の広辞苑 25万語)
記述の文法がしっかりしていた。
解釈の方針に一貫性があり、ぬきんでていた。
政治、経済、自然科学、文学、芸術にいたるまで幅広く論じることができるようになった
日本語のもとになったと言えることで非常に評価が高い。
判らない言葉は用例のいくつかの中から類推するという方法しかなかった。
1891年6月23日、文彦の仙台藩時代の先輩にあたる富田鉄之助が、芝公園の紅葉館で主催した『言海』完成祝賀会には、時の内閣総理大臣・伊藤博文をはじめとし、山田顕義、大木喬任、榎本武揚、谷干城、勝海舟、土方久元、加藤弘之、津田真道、陸羯南、矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した。