2018年8月23日木曜日

前橋汀子(バイオリニスト)       ・まだ成長できる

前橋汀子(バイオリニスト)       ・まだ成長できる
74歳、日本を代表する国際的ヴァイオリニスト前橋さんは去年演奏活動55年を迎えました。
これまでベルリンフィルを初めとする世界一流の多くのアーティストと共演を重ねて来ましたが、最近は小品を中心とした親しみやすいプログラムによるリサイタルも開いてます。
4歳でヴァイオリンを手にし、17歳でソ連のレニングラード音楽院に留学をした後、アメリカのジュリアード音楽院に留学し、スイスでもヴァイオリンの指導を受け花々しい活躍をしてきました。
1980年代に日本に帰国し、以後日本を根拠地として多くのコンサートを開いてきました。
去年演奏活動55年を迎えた前橋さんに伺いました。

2004年、日本芸術院賞受賞。
2011年6月、紫綬褒章受章
2017年4月、旭日小綬章受章。
こんなに長い事ヴァイオリンを弾き続けるとは思わなかった。
55年、あっという間の時間でした。
*チャイコフスキー  メロディ( Mélodie) 演奏

自分にいま何ができるのか考えた時に、日本の中ではまだ多くの方が会場に足を運んで、生のヴァイオリンの音を聞いたことも無い方が大勢いるのではないかと思いました。
ラッシュアワーで夕方改札口から疲れた顔ででてくる方がたを見た時にこういう方々に是非聞いてほしいと思ったんです。
15年前に、料金は3000円、会場はサントリーホール、土日か祭日の午後という事で始めました。
毎回沢山の人が来てくれました。
11時30分から1時間、料金は2500円ということで平日もやりました。
やはり会場で味わっていただけたらという強い思いがあります。
歳を重ねて同じ曲を弾いても見え方感じ方が変わってきます、なんでこんなことが気が付かなかったのだろうとか、指使いをこうしたらという思いがあり、それが弾き続けていられたことだと思います。

1943年生まれ、戦時中1歳6か月の私を背負って母親がバケツリレーの訓練をしていた時に、子供を置いてこいと怒鳴られても母は子供を離さなかった。
他の子供達は防空壕にいたが直撃を受けて全員が亡くなった。
今母親は95歳で元気でコンサートに聞きに来てくれます。
幼稚園で情操教育の一環でヴァイオリンを弾くことになる。
母の考えだったと思います。
白系ロシア人音楽教師の小野アンナ さんを紹介する方がいました。
小野アンナ さんはペトログラードで同地の日本人留学生・小野俊一(ロシア文学者・生物学者・昆虫学者・社会運動家)と出逢い、1917年5月に結婚。
翌1918年革命が起こりロシアを離れ、東京に来ることになる。
小野アンナさんは素晴らしいヴァイオリニストだった。
日本の子供達にヴァイオリンを教えることを生き甲斐としました。
後にソビエトに行きたいと思う一つの大きなきっかけでした。

子供心に先生の気迫みたいなものが伝わってきてレッスンに行くのが新鮮な気持ちがありました。
小学3年生の時に学芸大学附属大泉小学校の補欠試験に受かって転校する。
小学6年生で毎日学生音楽コンクールで2等。(母は優勝すると思っていてがっかりした。)
母が渋谷公会堂のコンサートに連れて行って、チケットの入手が困難なので私だけが聞きました。
ソビエトのダヴィッド・オイストラフという大ヴァイオリニストのコンサートを聞いた時に本当に素晴らしいと思いました。
ソビエトに行って勉強すればあのように弾けるのではないかと思って、それが夢になりソビエトに勉強に行きたいと思いました。
桐朋学園子供のための音楽教室の斎藤秀雄先生に週1回学びました。
高校は桐朋の音楽科に入って、2年の1学期の終わりにソビエトの留学が叶うことになります。
都立高校の道も考えて斎藤秀雄先生に相談に行ったら、「そんな生半可なことで音楽の勉強が続けられるか」と凄く怒られました。
奨学金も出すからということで桐朋に入りました。

17歳でレニングラード音楽院に留学することになる。
ロシア語は日ソ協会の日曜日の午後に講座があること知って、中学から通いました。
留学先では周りの学生達のレベルが高くて、指の細かいところが微妙に違っていて、変えれば弾きやすくなるだろうとは思ったが、それは一からやり直すことになる。
私の指は小さいし細いので人差し指を基本に弦を押さえていたが、小指を軸にして人差指で調整する方法でその方が本来弾きやすい、だがそれをするのには悩みました。
奏法をなんとか身につけようと思いました。(10時間、11時間練習をしました)
3年間の留学後はまだ中途半端でした。
帰ってきた年にジュリアード弦楽四重奏団の音楽に触れてみたいと思って、ロバート・マン先生のニューヨークにいけたらいいと思ったら、奨学金まで用意していただいて渡米することになりました。

ソビエトの社会主義体制とは違って、アメリカに行ったら糸が切れた凧のように生活の解放感を味わいました。
オーディションを受けたり、コンクールを受けたりすることがニューヨークでは可能で、カーネギーホールを27歳でデビューしました。
有名なオーケストラとの共演に繋がりました。
積極的に挑戦することは必要だったと思います。
ヨーゼフ・シゲティも渋谷公会堂で聞いて頭を撫ででもらった記憶もありました。
ヨーロッパに行ってみたいと言うこともあり、スイスに伺いモントルーにてヨゼフ・シゲティとナタン・ミルシテインに学びました。
小澤さんからも言われたが、音楽の基本は室内楽カルテットだよと言われていました。
4年前にカルテットに挑戦しました。
妹の前橋由子は東京芸術大学音楽学部ピアノ科を卒業して、妹とも一緒に演奏しましたが
1999年事故で妹が亡くなってしまいました。(53歳)
1736年のガルネリウスのヴァイオリンを使っていますが、やはり違います。
改めてヴェートベンの素晴らしさを感じます。