松本零士(漫画家) ・人は、生きるために生まれてきた
「銀河鉄道999」などのSF漫画で知られる松本さん、もう一つのライフワークとして戦場マンガと呼ばれるシリーズを手がけています。
戦争にかりだされた若者達の姿を描くもので、昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
この戦場漫画を始め松本さんの全ての作品には自身の戦争体験と陸軍のパイロットだった父親の言葉が大きく影響していると言います。
今年で80歳になります。
15歳から新聞連載を始めて、漫画家になってから60年になります。
昭和30年代の後半から断続的に150以上のエピソードを発表してきました。
私の父親が陸軍航空隊のパイロットで飛行機の羽が複数あった最初の時代の飛行士でした。
戦艦武蔵がやられたころ、父はフィリピンにいて部下の2/3をうしない、バンコックに移って終戦の当日正午は空中戦をやっていて、部下の3/4以上失って着陸したら様子が変なので聞いたら負けたということで、2年半抑留されて帰ってきました。
私は昭和18年まで兵庫県明石にいました。
父が昭和19年に戦場に行ったので愛媛県大洲市に移りました。
7歳の時に終戦です。
父親が帰ってきて小倉に行きました。
父親が公職追放されて路上の八百屋など色々しました。
新しい戦闘機が飛び始めるし、電車道はトラックは走ってはいけないと言いながら、米軍の戦車が走って来る。
帰還した兵隊たちから一杯戦地の出来事などを聞いて漫画にしてきました。
戦場マンガの一つ「音速雷撃隊」
旧日本軍の特攻兵器の桜花、飛行機に取りつけて切り離してロケットエンジンで体当たりする。
私はパイロットになりたかったが、中学で近眼になりパイロットを諦めた。
原爆を落としたという情報が伝わってアメリカ軍の兵士が「敵も味方もみんな大馬鹿だ」と言って最後終わるというもの。
私は機械マニアでした。
戦争の悲惨さも経験しました。
戦争漫画を書く時にメカの問題と心の問題とを通じ合わせて書く癖が付いてしまいました。
8月15日家に帰ったら雨戸が閉め切ってあって、こじ開けては入ったら婆さんが日本刀、槍、薙刀を持ち出して磨いているんです。(昔武家の家だった)
どうするのか聞いたら「敵が来たら刺し違えて死ぬんだ、お前も侍の子だから覚悟せい」
といって、家族で刺し違えて死ぬと言うことだった。
戦争が終わったと聞いた時はピンとこなかった。
父親が帰ってきて、小倉に来ました。
線路わきの処のボロ長屋(5軒長屋)に住んでいました。
いつも列車が通っていて「銀河鉄道999」で列車を正確に書けたのはそのせいなんです。
当時食い物が無くて海に行って魚を取ったりして食いつないでいました。
戦場マンガの一つ「帰還影の老兵」
戦地から帰還した兵士の自殺がある。
戦地から帰還した兵士は食べるものも無く家族も全員居なくなってしまっている。
実際に3人見ました、それは無残です、子供心に衝撃でした。
鉄道には柵も無く身体が真二つになっていました。
校舎から道を挟んでアメリカ軍専用の連れ込み宿がありました。
そういった日本人女性をみて最初は厭だったが、途中から彼女らも全てを失って生きる為、戦争の結果だと言うことに気が付いて、気の毒だなあとみんな同情しました。
そうしないと家族を養えないということが判ってきて、戦争が全てだと思いました。
「いつかまたやっつけんといかん」といったら、親爺に怒られて「そんなことを言う奴がいるから、こんな戦争になるんじゃ。 何人死んだと思う、二度と戦争はやってはいかん」と怒鳴られました。
十分惨めさを味わいました。
アメリカのコミックを沢山捨ててあったのでミッキーマウスなどを見て英語の勉強をして読めたり喋れるようになり、漫画の道にも繋がっていきます。
アメリカ兵が摺れ違うとものをばらまいてくれるが、私は受けないと言って踏みつけました。
学校の門前で付きつけるが、いらないと言うと怒鳴って来る、子供なりのプライドがある。
私は外国に行く時に小さい子にものを上げる時は膝を付いて手を握って渡すと受け取ってくれる。
絶対に馬鹿にしてはいけない。
負けると言うことがどんなに無残で悔しいものかという事を厭っと言うほど味わった訳です。
世界中を相手にするので漫画の内容の表現には十分注意しています。
相手にも相手の家族がある、それが前提でないと書けない。
関門海峡の海底には手りゅう弾とか戦争の機器類が一杯捨ててあってそれを運んできては遊んだりしていました。
機銃掃射に会った時もありますが、ダダダダダと音が聞こえてきて1回の音で6発出てきていました。
父は新型機のテストパイロットをしたり、南方戦線でも部隊長をしていて、相手を撃ち落としたりもしました。
相手にも家族があり、個人には何の恨みも無い、相手の顔も見え一瞬ひるむが、鬼になって戦わなくてはいけない。
部下が次々に撃ち落とされてゆく場面も父は見て来ました
そういった父親の話を聞いて戦争とはつらい残酷な出来事だと感じてきました。
父が公職追放された後に、又パイロットにならないかとのは話が来たが、アメリカの飛行機に乗れるかと言って断ってしまいました。
父は沢山の部下を失ってきてどの面さげて飛ぶのか、絶対飛ばないと言って生涯飛びませんでした。
「人は生きる為に生まれてくるので、死ぬために生まれて来るものではない」と父は言って、「それを頭に叩き込んでしっかり頑張らねばならんのだ」と言っていました。
書く時にはついそういう癖が付いているんです。
敵にも生きる命がある、殺し合わなければいけないという事は悲劇である。
人は限りある命であるから生涯の中で成し遂げようとして頑張る。
世界中の戦死した若者たちの中には生きていれば人類の文明に本当は物凄い貢献をした人たちが一杯いたはずだが、大勢死んでいる。
人は争っている場合ではない。
戦場漫画も沢山翻訳されているので、外国人も見てくれているので判ってくれる。
漫画には国境が無くなって、どうしても歴史を学んでおかないと、どうかして侮辱したり傷つけることになる、決して傷つけてはいけない。