2013年1月16日水曜日

河野耕三           ・照葉樹林が育てたエコパークの街



河野耕三       ・  照葉樹林が育てたエコパークの街  
宮崎県 県立高校で生物を教えるかたわら、全国各地の森林を調査し、自然保護の活動に長年携わってきました 
そして綾町に広がる照葉樹林に魅せられ、30年あまりに成ります  
綾町は宮崎県のほぼ中央にあり、東京ドームの535個分の照葉樹林が広がり
その広さは日本で最大級です そして昨年7月 ユネスコエコパークに登録され、国内では1980年以来という事で注目を集めています
ユネスコエコパークは人間と自然との共生に向けてユネスコが1971年に発足させた中心的事業で
生態系の保全と持続的活用を目的とする地域の事で
日本ではエコパークの愛称で呼ばれています  エコパークの登録までの道のりをお聞きします

森林が8割 その中の半分近くが綾町外の限定した場合 全体としては1/4位が照葉樹林です 照葉樹林 しい かし たぼ の木が代表的な木  原生的な森としては日本で最大級 1700ヘクタール(繋がっている領域で) 離れているところも   
合わせると2500ヘクタール 古い二次林まで入れると 3000ヘクタール  
他にも森としては御蔵島、沖縄本島 西表島等が有るが島であるのでまとまった自然林は意外と少ない  
農耕文化が日本に入って来てから、一番最初に破壊されてきたのが照葉樹林です。  
水田 畑で 建築用 杉檜の植林(明治、大正、昭和) でことごとく破壊されてしまった  
自然林の見られない山に成ってしまった

針葉樹の方が古い 針葉樹はある程度温度が低くて水分状況が比較的いいところで発達した  温暖化で それに対応することで広葉樹が発展してきた
条件が良ければ広葉樹が競争に勝つ  針葉樹は比較的厳しいところでも育つ 
針葉樹は急斜面、高いところ、寒いところに降りて行ってしがみつくようにして逃げて行った  
針葉樹は都合の良い材質を持っていた 広葉樹を切って針葉樹を植えた
針葉樹は根が浅く広くはるので 地滑りに弱かったり葉が脂分が多くて微生物の分解が遅くて永く残る そこにカビが生えて、カビが水をはじいて、地下に水がしみ込んでいかない  
土地がやせる 雨が降ると土砂崩れしやすい いろんなところで土砂崩れがしやすくなった 

昔は不安定だが土地がいいところは広葉樹、安定しているが土壌が無くて厳しいところが針葉樹 と棲み分けして自然を押さえていたが それが解き離れたために自然のバランスが壊れてしまった  
生物の先生を36年やった 植物社会学を大学で勉強した」
有る種類グループ 仲の良いグループと 仲の悪いグループが出来る 
時間を掛けて有る共存する社会を形成する 
その共存する社会を調査して分類する其れが植物社会学 分析して考察する 
(どうしてコロニーが出来たか)  

郷田さんが町長に成られて 1966年に森林伐採の問題が出てきて、一人町長のみが反対して、翌年67年から森を切らないでも住むような地域作りを始めて私と出会ったのが1983年なんです 約半世紀に成る  綾町の照葉樹林を守ろうとした  
自然が持っている価値を町内外の人に証明してほしいとのことで声を掛けられた 
表側は切れない状態だったので 綾町の裏側から切り始めた どうにかしなければと言う事で反対の取り組みを始めた  
森林伐採の会社に雇われていた 伐採された木 加工会社が加工して 外部に出荷していた  労働者としてのメリットはあったが資源としては無かった

パルプ、次が建築材としていた  安かった  原生林として構成してた当時は殆どパルプ 
安いため 杉、ひのきに転換しようと国策が拡大造林、樹木の 
(昭和20年代後半から)転換 として進められ、 その結果 原生林を切って、安くパルプ材、として出して植林をして行った
何故森が切られるかというと 木を切る為の労働力が雇用に繋がっており、これを転換するために町長は森に頼らなくてもいいようなそういった街作りを一生懸命に取り組んだ  
自然が無くなると日本の独特な文化が無くなってしまう  
そういった視点から森を見ようと言う事に成り総合的に、詩、短歌、文学、絵画、音楽、歴史、
考古学とかありとあらゆる分野の人を呼んで、森をいろんな角度から見直そうというシポジュームを 展開したのが2年目に始めた  

単なる資源の森ではなくて日本人の無くてはならない日本人を育ててくれた、文化をはぐくんでくれた非常に重要な生態系であると言うのを多くの人が知り始めた  
そこで初めて綾町の森が注目され始めた  
発酵文化 東アジアだけ 高温多湿独特の文化 カビを使った文化 他には無い 
お茶、 アジア 漆 乾燥地域では旨く乾かない 湿度の高いところでないと旨く乾燥しない 
 藍染め 繭 藍 等等 いろんなものが繋がって来る
針葉樹林では発酵しない  染色では木の灰を燃やして定着にしたり、全部照葉樹林 に繋がっている

いろいろな生活の処に繋がっている  それが判って貰えるまでには10数年かかっている
短歌和歌 日本的な表現の手法も非常に繊細  繊細な日本人独特な感性は ブナ林とか 
四季が有る メリハリがはっきりしている
針葉樹林は変化の無い 季節の移ろいが無い  観察力を磨ぎ澄まされた古代、中世の人達 日本独特の表現の手法技術を打ちたてた
実際の生活が安定しないと駄目 有機農業で町民が体験した 
それが売れると言う事を体験した  そしてそれがお金に成る 生活の安定に成る
綾から宮崎に 宮崎から日本全体に広がってきていろんなところから注文が来るようになる 
あやのブランドが確立するようになる

森を切らなくても、綾の生活するエリアの中で自然の恵みを利用して経済的な自立が出来る  農業で先行的にやって山からの地下水を利用して酒を作る (カビ文化)  経済的に潤ってくる100万人が来るようになった(7000人の街に)  自然保護が地元に人に支持された  
ある時期は人が逃げてゆく時期が有った 昭和28年 ダムを作って発電するという事で 
35年ごろ人口が増えた パチンコ、映画館 、飲み屋  工事が終了するとこの人達が夜逃げするようになる その様な時に1966年に郷田さんが町長に成る

現在は自然と共生して持続可能な循環型社会をめざしている 
考え方は必要だがそのまま綾をまねようと思っても旨く行かないかもしれない
いい自然が有っても旨く行かないかもしれない 全住民が参加出来るシステムが出来上がった (木工、地下水 釣り橋を作ったり) 
22公民館を作って、そこに交付金を与えて、館長を設けて、運営する役員会を設けて
 毎月役員会を行って いろんな分野の事を年間予算を立てて
やってゆく   行政の末端としての働きは役場の職員が行う 
 一区一品運動 有機農業 (小さな面積のところに) 健康になる
作ったものが余って段々青空市場で売るようになり どんどんそれが口コミで広がって 
発展して行って本物のセンターを作る そこで3億数千万円   年間で持続的に売る様になった  零細の一坪菜園運動から始まってこの様になった 中規模農家はJAを通して全国に販売する  
綾町がユネスコのエコパークに登録された 屋久島 白山 志賀高原 そことは違う 
国が勝手に申請 登録した 
地方自治体が提案したのは日本ではここだけ基本的には手を付けない
植林は出来る 人は住むことが出来る  
原生林と共存出来るシステムが整った状態で申請できる(綾は人が住んでいない) 
高齢化 過疎化  がいわれるが 新しく移住してくる人がいる  自然減ではある  
Iターン 最近では若い子供連れが来ている
孤独死は都会では言われているが、ここではない 地域の繋がり(公民館制度等で話し合う場が密にある)が有るので之から如何に維持するか 入込客 最近は若干減っているので100万人を維持したい  どうしたら綾の街並み空間が出来るか 観光、歴史等町民の手でやっていきたい   
エコパークにふさわしい街作りをしようと(とりあえず100年かけて)提案して体制作り、 組織作りをやっている  
それぐらいかけないと人間と自然との本当の営みは戻ってこないし、確立しない  
正直言ったら200年か300年ですかね それだけの時間はかかる
世の中は破戒の方向に動いてる中で 綾は地道にゆっくりとやってゆこうとしているので 
持続と我慢が必要だと思っている