2025年12月14日日曜日

バトバヤル・エンフマンダハ(モンゴルの視覚障害児支援センター )・母国で視覚障害児の光に~日本の学びに支えられて

 バトバヤル・エンフマンダハ(モンゴルの視覚障害児支援センター )・母国で視覚障害児の光に~日本の学びに支えられて

エンフマンダハさんは37歳、幼い頃の事故がもとで13歳の時に失明しました。 モンゴルの大学で日本語を学び、2009年に来日、猛勉強の末に日本の按摩、マッサージ、指圧師、鍼師、灸師の3つの国家資格を取得しました。 2013年にはモンゴルで初となる視覚障害児を支援する団体、「オユンラグセンター」を設立、首都ウランバートルでマッサージ店を営みながら、地方に暮らす視覚障害児の修学支援を続けています。 

今回15人で日本行きました。  モンゴルにある唯一の盲学校の校長先生と3人の先生、モンゴル科学大学の特別教育部の主任の先生、盲学校の生徒たち3人親二人、幼稚部の先生とオユンラグセンターの事務局長。  日本に来た目的は日本での特別教育を聞くよりも見たほうが確実で、実際マネが出来るのではないかと思ってきました。  障害者スポーツセンター、筑波大学、筑波大学付属視覚特別支援学校の見学をしたりしています。  先生方が教える教材を工夫して作っているところが大変参考になりました。 私も日本に来て初めて白杖を持ったし、モンゴルでは今でも白杖をもって歩くのは難しい。 点字ブロックもありますが、途中で切れて居たり、電柱が有ったりして、逆に危ないかもしれない。  一人で行くことはなかなかできないです。

5歳のころに外で遊んでいた時にブランコから落ちて網膜剥離を起こしてしまい、段々悪化していって全く見えなくなったのが13歳ぐらいです。  学校は高校まで盲学校に通っていました。  視覚障害児は3千何百人いると言われますが、今盲学校には108人だけです。  日本の按摩、マッサージ、指圧師、鍼師、灸師の資格を取った先生から話を聞いて、自分も資格を取りたいと思いました。  大学で日本語を勉強しました。 点字の教科書など何もない状況でした。  大学も視覚障害者の受け入れは初めてなので、視覚障害への理解がなかなか得られませんでした。  いろいろな壁を乗り越えてきました。 

大学2年の時に日本の国際視覚障害者援護協会の日本語の試験に合格し、日本に来ました。(2009年) 筑波大学付属視覚特別支援学校に入学しました。(19歳)  魚が食べられなかったし、野菜も嫌いでしたので、食べものには困りました。  カレーなどを食べていました。 漢字、医学用語も大変でしたが、先生はじめ回りから助けられました。  今でもその方たちとの付き合いがあります。  家族の私への期待、応援もあって頑張ってこれました。      

帰国して「オユンラグセンター」を立ち上げたのは2013年です。 経済的な理由でモンゴルで唯一の視覚障害者の学校を辞めて行ってしまう事に対して、残念に思っていました。  日本での作文コンクールがあって3位に入ってその賞金(5万円)を「オユンラグセンター」設立に使いました。 オユンラグ=知恵と言う意味です。  今は10人ぐらいの生徒を学校に行せています。  学校へ行くための生活資金、交通費などを支給することをしています。  視覚障害の子を見つけ出して、説得して学校に行かせるようにすること自体が、大変という事もあります。 

今は10人ぐらいの生徒がいますが、親に置いておかれて孤児になってしまった子が3,4人います。  2014年に出会って小学1年生に入学した男の子が今回一緒に来ています。   やって来てよかったし、今後も続けたいと思っています。  「宝の家」と言う施設を日本人のお母さんが作ってくれて、そこを利用してサマースクールを開いています。(7年目)    生活訓練などもしています。  保護者に対しても、危険だからやらせないという様な、考え方を改めてもらうようにしています。  私も結婚して子供が出来て、1歳1か月で大変です。 来年は「宝の家」の施設を冬でもできるようにしようと思っています。  勉強したり経験できることは全て日本の支援の皆様のお陰なので、これからの人生を明るく生きる子が多いので、感謝の気持ちで一杯です。