2025年12月15日月曜日

伊集院光(タレント)            ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 後編

伊集院光(タレント)          ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 後編 

伊集院さんのデビューは6代目三遊亭円楽さんの門下の落語家でした。 伊集院さんと6代目円楽さんとはどんな師弟関係だったんでしょうか。

僕が落語を廃業するときにも、直接には落語を辞めるなとは言いませんでした。 「じゃあ 頑張れよ。」と言うだけでした。  大師匠のところに行くのは勇気が要りました。  「辞めるというのには誰も止はしなよ。  一つのことを続けられない人間が、上手くいくわけないっけどね」と言うようなことは言われました。  一か月後に空いている日に大師匠の家に集まるようになっていましたが、兄弟子から聞いた話ですが「最近落第が来ないけど何かあったのか。」といったそうです。  大師匠は瞬間に怒るけど直ぐに優しくなる人でした。

楽太郎の弟子だというようなことは、相手側から言われるまでは辞めようと思っていました。 師匠とは全く交流がなかったです。  困らせて困ったところを応援したいという番組があって、女性の下着をつけてしゃべっているところへ、うちの師匠が突然現れるというものでした。  ラジオでしどろもどろになったのはあの時だけですね。  終わった後に、自分の立場がはっきりしていないので「今の状態は破門という事ですか。」と聞いたら、「お前が今でも尊敬しているのならば、師弟関係だよ。」と言ってくれました。  その後クイズ番組などでご一緒したりするようになりました。 ラジオの競演もしてもらえました。  

コロナが流行ってゲストが呼べない時期があり、或る番組に対して師匠がゲストに呼んで欲しいと言ってきました。(ゲストを呼べない時期で困っているのを察してのことです。) そこで対談があってアシスタントのアナウンサーが最後のころに、「伊集院さんは落語をやってはいけないのですか。」といったら師匠が「やろうぜ。」と言いだして、二人会をやることがトントン拍子でやることになりました。(2020年)  師匠が体調を崩していたりする時には、師匠のラジオ番組に出演したりする様になりました。  師匠の弟子として一番充実していたのは、二人会が決まってやって終わって、その期間は短かったが楽しかったですね。  二人会は一回だけの予定でしたが、 舞台上で後3回やろうと言ったんです。 自分では完全燃焼したつもりでした。  「死神」をやることになり自分でも工夫してやろうとしていたら、師匠がそれは「トリ」にやってもらおうという事で「トリ」を務めました。 その時の師匠は入院するほどではないんですが、完全回復ではないが大熱演しました。  疲れたから帰ると言ったんですが、私の話の後迄いて、楽屋のソファーで横になっていました。  「寝ちゃったな、聞いてはいたけど。」と言いましたが、「 見て聞いていて寝たふりをしているだけです。」と、一門の弟弟子たちは「一生懸命に見ていました。」と言っていました。 

「お前らは先人たちが削って削って綺麗な古典にしたのに、足し過ぎだ。 そんなに説明しなくてもいいんだよ。 落語は理屈じゃあないんだから、ここからどれぐらい削るかと言う作業なんだよ。 削って下さい。」と言われました。  落語のなかで「結局」と言うのに古い表現だと「とどのつまり」と言うのがあります。  「とどのつまり」を使ってもかみさんにはわからないといったら、師匠が「うーん まあな」でどうだと言ったんです。 「結局」と「とどのつまり」の両方の意味で使えることにぞっとしました。

2018年に初期の肺がんを師匠が公表しました。  手術をして翌年高座に復帰、2022年脳梗塞で再び入院。  肺がんの話はショックでしたが、また倒れたという事もショックでした。  5月に退院して、8月の国立演芸場中席でトリを務める。  9月30日旅立ちました。  師匠は一切泣き言を言わない人でした。(錦糸町で写真週刊誌に撮られた時も動じませんでした。)  お墓は群馬県前橋市の釈迦尊寺にありますが、火事になって大きなダメージを受けました。  いろいろ迷った時に、師匠だったらどういうだろうか、と言う時にお墓は必要なんです。    時間を忘れて夢中になったぐらい好きになったことに、社会性を持たしてしゃべりなさい、そうすればくいっぱぐれる事は無いというんです。 例えば野球が好きならば、社会性を持たせるという事は、野球を全く知らない人にも届く様に、面白さが判る様にしゃべるという事。 

師匠への手紙

「師匠 ここの所小言を言ってくれませんね。 ・・・60歳近くになると小言を言ってくれる人がいませんから、小言無しは寂しいものです。 ・・・三回落語会をしようと言われ、戸惑ったもののいろんな演目についてアドバイスを頂く日々は、長く不義理をしてしまった不肖の弟子としては修行生活のなかでとても充実した日々でした。・・・僕の朝毎日やっていたラジオ番組が終わってしまい、凹みに凹んで、毎日のラジオ番組なんてこりごりですと強がった時に、師匠が「これで芝浜もうまくなるかも知れねえな。」と「朝起きて魚屋の仕事を行かない気持と久しぶりに魚屋やりてえなあと思う気持ちがいつか判るんじゃあねえか。」と言うアドバイスです。・・・ 「宮本武蔵」みたいなもんだと言われて、後で宮本武蔵」の本を読んで、やっと意味が分かりました。 芝浜をやる事は無くなったけれど、今僕は昼のラジオをまたやっていると、たまにこの言葉を思い出します。 ・・・僕は師匠の言葉を胸にもう少し頑張ってみようと思います。」