2011年9月13日火曜日

桑山紀彦(代表理事)       ・国際ボランティアが被災者となって

桑山紀彦(NPO法人地球ステージ代表、精神科医) 国際ボランティアが被災者となって
<概要>
宮城県名取市在住 岐阜県出身の48歳 山形県で勤務医のかたわら 国際ボランティア活動を続けて
2年前に宮城県名取市に移り 開業しました
医師としての仕事の傍ら国際ボランティアとして世界各国の紛争地や災害現場に緊急支援活動等を
行い 訪れた国は50カ国を超えます
ギターの弾き語りが得意だった桑山さんがいま力を入れているのは海外で撮影したビデオヤやスライド
を上映しながら自ら作曲した歌をトークとともに伝えるステージ活動です
10年前にはNPO法人地球のステージを発足させてこれまでに全国の学校、公民館などで約2400回
も開いています

そんな桑山さんを襲ったのが3月11日の東日本大震災 病院では地震の発生直後から住民の
治療に追われました 
桑山さんは大震災編としてステージで伝える一方で津浪記念資料館を開設する構想も進めている 
国際ボランティアとして活躍してきた桑山さんが被災者となって感じた事、又今年半年の活動を語る
JICA 埼玉県で公演中に大地震に会う 偶然レンタカーを借りていたのですぐさま故郷の宮城に
向かう 高速道路が不通の為ナビを駆使して裏道を行く
9時間かけて午前1時にようやく名取に着きました 日本中が停電している様な状況  
これは大変な事になったと戦慄した
事務局が水浸しなので津波が来たことが判った 
中途でラジオを聞いて一番ショックだったのは仙台市若林区で100~200の遺体が発見されたと
云うあのニュースには涙が止まりませんでした
号泣しながら車を運転したのを今でも思い出します 我が名取市に及んでいるとは知らなかった
3月9日にも大きな地震があったが津浪は50cm程度だった
 
仙台平野の海岸にまさか津波は来るとは全く予想していませんでした  
東北国際クリニックあたりも全部停電状態 ゴーストタウン状態 だった
病院にたどり着く 幸い建物は崩壊していなかった 
副院長始めスタッフの人達は近くの小学校に避難していてそこで再開することが出来た
(時々携帯が繋がり判る)
停電による情報の寸断がこんなに恐ろしいものとは思わなかった  
5つクリニックがあったが3つは倒壊、1つは水没 うちのクリニックだけ助かった 
床下まで浸水(ちょっと高い位置に有った) 
翌朝は天気がよく瓦礫の山に愕然とする

これで病院経営もステージに立つことも無くなり、明日から如何していこうかと途方にくれた 
自分に未来はないとあの朝思ったのを忘れられない
一人じゃ無理だけど副院長はじめスタッフが固まっているのを見て、この人たちと一緒に立ち上がれ
ばなんとかなるかも知れないと思った
この人たちとやれるところまでやってみようかな 2時間ぐらいしたら不思議と思えてきた
3/12朝の9時に病院を開ける 電気、水の無い中でやれるかどうか不安だった 
どっと患者さんが来た ずぶぬれの患者さんが  野戦病院のような感じだった
「よかったー  あいてたー」と言われた 開けててよかったなーとつくづく感じた 
これが病院の役割だとあのとき感じた 

自分が開業した病院が人々に頼ってもらえる そんな病院に成れたんだと思ったら
経営できるかどうかなんて吹き飛んだ とにかくこの人たちの為にやれる精一杯の事をやろうと
スコーンと思えた あの逆転劇は凄かった
漁師の方がいらっして「いやー先生 俺ーっ泣いてもいいかーっ ここで泣いてもいいかーっ」 って
言うんですよ 「どうぞ どうぞ 泣いてください」
「先生 俺よーっ 船もみんな失ったんだ 家もなんにもねー だけどよー この病院開いてて
よかったーっ 俺ここで泣いていいか―っ」 2人で泣きました
その時お互い支え合うと云うのが判って、僕は其の漁師の親爺さんにこの人に元気になって貰う為
だったら、24時間寝ないで頑張っちゃおうと思ったし
おっちゃんはクリニックが開いて居て良かったと思ったんでしょうね 

その瞬間お互いが支え合えればあんな悲惨な出来事も乗り切れるかしれないなあと思った
最初の一週間は内科と外科と小児科が中心だった 薬の供給元もしまっていたので在庫しかない 
在庫量を把握してどのように量を調整するか しのいできた
停電、断水、制限された薬 その中で人間いろいろと智慧が出てくる 工夫する  
2日目から発電機を借りてくる 薬を作る機械をうごかした 
小、中、高校といい思い出がなく、自分に対するコンプレックスが酷くて日本に居場所がないと思っていた 
20歳のときに初めてインドにアルバイトで貯めた金で放浪の旅を続けていました
ひょんなことでフィリピンに行ってロヤナスという女の子と出会ってどんな環境の中で暮らしている人でも
友達になれると教えてもらった

それが国際ボランティアのきっかけで後はもう怒涛のようにいろんな世界に行かして貰いました
お世話になったフィリピンの国から 女の人達が山形にお嫁さんに来ていた 
海外でボランティアするのも大事だけれど自分の暮らしている処で外国の方に
サービスするのも同じ事だろうと思って日本語教室を開いたりだとか多文化交流のイベントをやったり
していました   
医療ボランティアとしてはカンボジアとかパレスチナのガザとかそういった方にも行くようになる 
カンボジアは僕にとって本格的に活動するきっかけになった国でもありますし、
内戦が抜けてようやく復興に向けたカンボジアで病院を立て直すという仕事をしていました
パレシチナのガザ地区では戦闘状態の日々ですから子供たちの心の傷が心配で心のケアを今も続け
ています  あっという間に10年近くなっている

最近多いのが東ティモール 数年前に独立をした中でまだ経済的には難しい 
人の命を守る為の保険医療を中心にパイロクテ病院というところの支援とやまの中に入って行って
お母さんや子供たちの健康を維持するためのプログラムを続けています
何が自分にできるかというのがスタートだったのですが、世界というのは人と人との繋がりによって
支えられていると
思いますのでボランティアはプレゼントの交換会みたいなものですからね
プレゼントしている様でプレゼントを貰ってたりして途上国での活動が多くなってきました
2年前まで山形で勤務医をしながら国際ボランティアをし、それから地球のステージと云う音楽活動も
して忙しかったが
2年前に山形から宮城県の名取市に移った →国際ボランティアの活動や音楽活動が忙しくなって
病院にあまり居られなく 本当に申し訳ないと思った

自分がやりたい事を見つけてたのであれば自分の責任は自分で取ろうと開業医の道を選びました
名取を選んだのは音楽活動が多かったのと仙台空港、仙台駅が近かったから 
一階がクリニック、二階が地球のステージの事務局になっている 地震と津波に出合ってしまった 
ある意味運命かも知れない 
津浪が襲ってきたことをいつまでも後悔する
のではなくそれを転じてなにかプラスに変えていかなければいけないなと最近思えるようになってきた
毎日3つ落ち込んでは2つ元気を貰ってたからなんか後ろ向きになっていた 
本当に少しでも前を見るのが怖くって明日や明後日を想像するのは恐ろしくてできなかった
大震災後、足元ばかり見ていて 今日を生きることに精一杯で明日の事を考えることが不安で
出来なかった 

多くのショックを受けた理由の一つが名取市には沢山の友人、知人が出来て、かなり大勢の方を
なくしてしまった 患者さんだけで28人失う 友達も6人失う
これからだと思った矢先に多くのものを失って正直言うと心底落ち込んだ 
特に津波が恐ろしいなと思ったのは面で襲ってくる 全てを破壊してしまう 
 大切な記録も歴史も面で持っていかれてしまうので取り返しのつかないような気持ちになってしまう
救済者から被災者になってしまって感じたこと→本当に心の落ち込みがひどいものだと云う事が
自分でも良くわかりました
どう頑張っていいか判らない人間に「頑張って」と声かけたらやっぱり良くないんだなと自分でも
体感しました
でもある時期を越えると「頑張って」と声をかけられた時に「はい 自分なりに頑張ってみます」そんな
風に言える心の変化がようく判りました

1週間単位で、1カ月単位で心がどう復活してゆくのか自分の復活とともにそれを理解していけて
よかったと今は思います
「この国へ」 震災の歌
住民たちへの心のケア→最初の3週間は精神医療は必要なかった 3週間目から心の問題を抱えた
人がどっと多くなった
殆どが失ったものに対する落ち込みと将来に対する不安 判りやすい内容ではあるが私達は対峙
してゆかなければならなくなった 
その時に思ったのはそれは理屈ではない 一緒に泣こうと云う事でした 
同じ目線で付きそう、寄り添うそれが心のケアにとって一番大切なことなのだと思いました
その人の心にどう寄り添えるのか、寄り添えるのであれば一緒に泣いてもいいじゃないか 
僕にとっては大発見だった 

何も語らない ただおいおいと泣くだけです 2人で  その後にすっきりした顔をされた患者さんが
帰って行くのを見てこれで良いのだろうと思った
矢張り人間はすこしでも自分の事を判ってくれる人を探しているのだと思う   
僕自身も沢山癒されました
一緒に泣く事で僕自身の心も軽くなった覚えがある 
被災2週間後に子供サッカーを開催 どのようにして出来たのか→大人の人は泣いたりして感情を
表現出来るんですよね
子供たちは避難所を回っていると元気っぽく見える 逆に心配になって
「おいおい みんな大丈夫か 本当は泣きたくないか 他にもっと言いたい事があるんじゃないか」と思った
これはスポーツだろうと スポーツで一杯発散して 勝った、負けたで涙を流したらきっと、彼らの心の
ある部分心が軽くなるんじゃないかなと思った

無理やりだけど話したらやろうやろう言う事になりうちのスタッフ中心に第1回のサッカー大会が
実現出来た  やれてよかったなあと思う
インターネットでの情報交換 ブログを書くと20も30も書き込みが有って 「あーっみんな 見守ってて
くれる」と思うと俄然元気が出てくる
やっぱり人間は人間によって支えられているんだなとつくづく思った 
国際ボランティアの人達からの応援もあった お前たちを休ませたいから来たんだ 
お前ら夜の当直は俺に任せろ 
(第一線でバリバリやりたかったに違いないが)クリニックの方と避難所回りで休む間もない 
仲間と一緒になんとか、やれたなあという充実感が日々を支えていたように思う
ボランティアの経験が大いに活かせた あるもので勝負 あるもののなかで自分たちが何をどう出来る
か 考えて行動に移す 諦めない気持ち
3月下旬 地球のステージ 作品を作って話す 
スリランカの津波の救援に行った時の歌