馬場あき子(歌人) ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)
馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ。 日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)卒業後、中学や高校の教師を務めながら短歌歌誌「かりん」を創設、以来多数の歌集を発表しています。 歌壇を代表する馬場あき子さんの原点は太平洋戦争の戦争体験です。 戦争当時馬場さんは女学校に通っていて、学徒動員で東京武蔵野市にあった中島飛行機の軍需工場で働き、空襲では東京高田馬場の自宅を失いました。 終戦を迎えた1945年8月15日、馬場さんは17歳、女学生の時から短歌を作っていたと言う馬場さんは、戦争中何を体験し、どう感じどう考えたのか伺いました。
焼け跡を耕して畑にしていました。 サツマイモの蔓先を摘んでおひたしにして食べるんです。 集まってラジオを聴きました。 玉音放送です。 父がどうやら戦争が終わったらしいですよと言いました。 私はどうなるんだろうと思ってました。 焼け残った家の2階からギターを弾いた男がいました。 私は戦争が終わったんだと思いました。 どっかから「馬鹿野郎」と言う声がして、「日本は負けたんだぞ。 なんで音楽などやるんだ。」と言う声が聞こえて、その人は音楽を止めました。 周りを見ると、明かりがつけるようになりました。 家でも60ワットの電灯をつけて黒い遮蔽幕を取ったらすごく明るく感じました。 何の感想、何の考えも浮かばなかったです。 呆然としていました。
太平洋戦争が始まったときには、世界地図を見て、こんな小さ日本がとてもアメリカに勝てると思いませんでした。 1人1畳半位の女子寮の部屋に入れられて、そこから工場に通いました。 6尺旋盤で飛行機のエンジンの台座を作ってました。 何も考えず、ただただ一生懸命作っていました。 1日4回ぐらい空襲警報がありました。 夜も3回位ありました。
私は1番悲しかったのは、山梨のほうに疎開していた女子高の生徒が入ってた棟に爆弾が落ちて、女子生徒がいっぱい死んで、大八車にいっぱい積んで、埋めに行くと言う話を聞きました。 男子の中学生の級長が伝令に行くために防空壕を出た途端に爆弾が落ちて、顔の皮がベロンと剥けて、一瞬自分では剥けたことがわからなくて、「行ってくる。」と言って、後ろを向いたら顔の皮がぶら下がっていたと言う。そういう話も聞きました。 その男を診療所に連れて行ったら、そこは修羅の血まただったと話を聞きました。
右胸に白い木綿の布に墨汁で、名前と住所と血液型を書いてみんな貼ってました。 怪我をしたら、血液型わかるようにとか、死んだときにはどこの班かって言うことがわかるように書いてたんだろう思い出しました。 我々に教えてくれた工員さん(大学の学生が来ていた。)はだんだんいなくなっていきます。 戦地への招集令状が来ます。 工員さんと恋をしてはいけません。 戦死するかもしれない方なので、生きて帰るかわからないので未亡人になりますよと言われました。 恋はご法度だった。
学校の宿題で短歌を作るとか、日記を出すか、作文を出すかということで、私は短歌を選びました。 ノートなどはなくて、白い紙の裏に書いてました。 戦争が終わって大学ノートが買えるようになってからそれを写して持っています。 人に披露できるようなものではないでした。 自分の存在を言葉に残したいと言う思いはありました。 夜中の1時2時に旋盤を回している時など、一体人生って何だと思い出します。 絶望的になって永久にこのまま機械みたいに虚無的になります。
軍歌ばっかり歌って、女の歌のない時代でした。 露営の歌 酷い歌だと思います。 (勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに 瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波)
死骸を見ても感情は動かない。 戦争って生きているとか、死んじゃうとか、死んでるとか、そういう感覚が麻痺してしまいます。 ウクライナの瓦礫の映像を見た時には同じだと思いました。 戦争と言うのは人間の神経を麻痺させてしまう。死んでいる人の死骸と言うのは終わったものとしか見ていなかったです。 戦争の意味なんてなにも考えませんでした。 早く終わったらいいという思いでした。