西川きよし(漫才師) ・笑いで幸せを届けたい ~芸能生活60年を迎えて~前編
西川きよしさんと言えば「やすきよ」で親しまれた横山やすしさんとのしゃべくり漫才で一世を風靡した事は皆さんの記憶に刻まれていると思います。 テンポのいい掛け合いの末、型破りのやすしさんを時にはやり込めてしまうきよしさんの突っ込みで、日本中を大爆笑させました。 やすしさん亡き後も舞台に立ち続けて、今なお私たちに私たちに笑いを届け続けて居ます。 60年を振り返り、これまでの万歳人生、笑いへの思いを伺いました。
77歳になりますが、60歳の時に思ったのは、段々加齢とともに頑固になってゆくから、素直に人の言う事を優しく聞く耳をもたないといけないという事を先輩によく言われました。 これからも初心を忘れずに頑張っていきたいと思います。 あとは健康の自己管理ですね。 舞台はエネルギーの元ですね。 利他の精神、お客さんのお世話になったので、世の中のためにどれだけお笑いでお返しが出来るかどうか、しっかり考えて行かないといけない。
60周年記念全国ツアーが始まります。 ネタの勉強しないといけませんね。 横山やすしさんとスタートして60年勉強させていただいたおかげですね。 高知で生まれ育ち、母親を助けようと、野菜、新聞、中学からは牛乳配達、100軒以上配達しました。 大阪へ出てから自動車の整備工として働きました。 引火したガスホースが踊って大きな火傷をして、何か月も入院して考えました。 ダジャレを言っていることが回りから面白いといわれて、道頓堀の文楽座へ行きました。
ミヤコ蝶々、藤田まこと、白木みのる、佐々十郎らの喜劇役者に弟子入り志願するが断られてしまいました。 ちょっと石井均に似ているといわれて、弟子にしてもらおうと頑張ろうと兎に角通いました。 断られるんですが、又、10秒しゃべるために12時間うろうろ時間をつぶして9日間通いました。 9日目についておいでと言われました。 石井均先生の兄弟子が3畳の間に一人で住んでいましたが、そこに2人で住むようになりました。 楽屋に入った時に温かさと芸能界の匂いを感じました。 女優さんの香水の匂い、コロン、大道具小道具、びんつけなどの匂いを感じました。
兄弟子から細かいところまで教えてもらっていい勉強になりました。 石井均さんが東京に戻ってしまいました。 1年後に杉浦エノスケさんから、人手が足りないからと吉本新喜劇に誘われて、挨拶をしている時に丁度白木みのるさんが舞台に出ていました。 「おーいお前 弟子にしてくれと来た奴やな」と言われ「俺の身の回りの世話をしてくれるか」と言われました。 それで白木みのる先生の付き人としてお世話するようになりました。 当時は手取りで5400円でしたが、或る時に白木みのる師匠が財布から1万円札を出してくれて、「これからは月に1万円を渡すから」と言われて嬉しかったです。
或る時『てなもんや三度笠』の着ぐるみの熊役をやってもらえまいかと言われました。 それがテレビ初出演となりました。 それから毎日天王寺動物園に行って熊の動きをずーっと見ていました。 回りから褒められ、以後いろんな動物のぬいぐるみの役が回って来ました。 『てなもんや三度笠』の最後の方に山本リンダさんの付き添いで田茂平とネギ作という役でやすしさんと一緒に初めて顔が出る役を出していただきました。 白木先生には本当にお世話になりました。
或る時、横山やすしさんから「君のしゃべりは漫才に向いている。 俺と万歳やらへんか」と言われました。 20数回言ってきましたが、ずーっと断っていました。 妻から「そんなに言ってくれるのなら、思い切ってやってみたら」というんです。 やすしさんはコンビを4人変えていて、私が5人目でした。(周りからは5人目の犠牲者になるといわれていました。) 「駄目になったらどうするんだ」と妻に言ったら、「私も辞めるわ」というんです。(当時テレビ3本ぐらいレギュラーをもっていました。) 「駄目だったら誰も知らない所に行こう」というんです。
初舞台は自動車のネタとハイキングのネタを交互にやっていました。 昭和41年6月1日から京都の花月に出していただきました。 1967年、デビュー10ヵ月後にして上方漫才大賞新人賞を受賞しました。 嬉しかったですね。 その時凄く稽古をしました。