2023年7月13日木曜日

松山照紀(住職・看護師)        ・駆け込み寺の庵主としての生き方

 松山照紀(住職・看護師)        ・駆け込み寺の庵主として

松山さんは1962年福岡県生まれ。  20代で結婚、離婚を経て看護師の仕事をする傍ら、人間の生や社会の在り方を研究する死生学を学びました。  その後自らの大病や、離島での看取りの実践を経て48歳で出家します。  現在は女性を対象とした一泊二日の修行体験や座談会、和裁や料理の教室などを開き、毎朝4時半からSNSで朝のお勤めの様子を外部配信しています。  訪れた人から庵寿さんと親しまれている松山さんにお話を伺いました。

不徹寺(ふてつじ)は江戸時代の初期から中期の間に出来上がったお寺と聞いています。   現在は3度目の移転でここに続いて300年を越えたというところです。   初代は4人の俳人のなかの一人とされている田捨女の創建というお寺です。 江戸時代から昭和の初期ぐらいまでは修行僧がいましたが、女性のための禅堂があるという事は、他にはなかなかありません。

家族が祖父母、両親、兄と私で、おじいさん子でした。  祖父が直腸がんになり手術をしたり梯子から落ちたりして、寝たきりとなり、自分が治してあげたいという意識は強く出て行きました。   小学校から帰ると尿瓶の交換、他いろんな小間使いをしていました。 祖父が亡くなり、死を直接突き付けられたそんな体験でした。  その体験が医療に向かうためにはなっていると思います。   「二十四の瞳」を見て先生への憧れはありました。大学2年生の時に妊娠しました。  困惑した毎日でした。 母親に相談して生むという選択をしました。  結婚して大学は辞めました。  もう一人子供が授かりました。    そのころ突然父が亡くなったり、引っ越しをしたりいろんなことが起きました。     その後離婚する事になりました。  就職しようとしましたが、下の子が3歳という事で10社以上断られました。(直ぐ休まれるのではないかという思い)   

指を切って病院に行ったらこれだとひらめきました。   看護学校を紹介してもらったり、見習いでも勤務してもらったりして、一か月しないうちに看護の仕事をしていました。末期がんの訪問があったりして、がんと命の向き合いというのが、スタートしました。   それが死生学を勉強するきっかけになりました。   上智大学のセミナーなどにも通うようになりました。  父方の祖母とも同居していて、祖母が認知症になり毎日夜中の2.3時まで付き合わなければいけませんでした。   結核性の胸膜炎になり、入院後に両方の肺になってしまいました。   体重がどんどん減って行って、ご飯も箸を持つ気になれませんでした。  死んでからの退院になると思いました。  

死にたくないという思いは腹の底からありました。  お金と時間5年間をかけた勉強が何の役にも立たないという事はショックでした。   母は感じ取って、私の子供に「亡くなったら、離婚した父親の元に行くのか、それとも一緒に暮らすのか。」と尋ねたそうです。 「一緒にずっと暮らす。」と言ったそうです。   社会復帰をして、パートで働いて、学校に再受験しました。(35歳)   刺激を貰って楽しかったです。      哲学の卒論をやりましたが、落ち込んでいた時に、ふらっと近くのお寺に立ち寄りました。 立派な仏像を見て動く感動しました。  その包み込むような手を見た時に、こういう優しい手で人のケアが出来ればいいなあと思いました。  座禅を組むことになり、最初は全く覚えていません。  

看取りの方は、アルフォンシス・デーケン先生から勉強を始めた頃には看取りのことが考えていました。  上の子が高校生になり、家には下の子が高校受験の時に下の子をおいて、離島に行くことにしました。   「止めたところで辞めないよね」と言われました。  離島では看取りの勉強をさせて貰いながら、7年弱で福岡に戻って来ました。  病院に勤務しながらお寺にも通っていましたが、出家のことは全然考えていませんでした。  

住職が「庵寿さんになれ。」と幾度となく囁くんです。  或る時に、「それじゃあそうしようかな。」と思いました。  母には相談しましたら、「近くだったらいい。」といってくれました。 実は修業は岐阜県でした。  すぐ入門というわけではなく、「庭詰」と言って、玄関に丸二日座ってお辞儀をするわけです。  その後小さな部屋に行って、「旦過詰」と言って、柱に向かって朝から晩まで5日間座禅をするという事をやります。     その後修業では夏は朝3時半に起きて、朝課?と言ってお経をあげます。  その後瑞涼寺?というお寺に行って問答?に行って座禅があり、帰って来て掃除、おかゆを食べ、座禅をする、の繰り返しです。 

修行の終了は、師匠の許可がないと下山できないことになっています。  私は3年8か月ぐらいでした。  修業した5人の一人が姫路のお寺を継いでいました。        一緒に回って山門をひとまたぎした瞬間に、ここに決まるという直感がありました。  

不徹寺は庭が広くて、建物の掃除からいろいろ考えることがいろいろありました。    檀家はいないし、収入は見込めないので、兎に角何かを始めようと思いました。     小物を作る会がスタートしました。  曹洞宗の青山俊董先生が「お寺というのは、心のゴミを捨てる場所だ。」ということを言っていました。   そんな場所になればとずーっと思っていました。  女性の方がいろいろ細かなことまで抱えてしまうと思います。   心の負担になっていることを一項目ずつ書いてもらって、二つの項目に分類してゆくことで、心の整理をしてもらうようにしています。   直ぐ結果を求めずに、じっくり自分と向き合ってほしいと思います。   ここは静かな時間を提供できる場所だと思っています。  

女性だけではなく男性も含めて、自分の固定観念に縛られていると思います。      自分の決めた枠組みから出ることができなくて、苦しむ人は多いですね。        龍門寺のお茶室を頂いて移築しました。  クラウドファンディングを利用しました。  判るまで何度も何度も刷り込んで聞くんだという風にして教えている、その根気強さ、確固たる禅の軸というものをもって教えてゆくところは凄いと思います。   (盤珪が各地に開創した寺,またその法嗣が開山に仰いだ寺は,世に盤珪寺といわれ,100余ヵ寺に及んだ。その唱導した独特の禅は〈不生禅(ふしようぜん)〉という。 人は生まれながらにして仏心を具えています。
仏心は不生にて、迷いも悟りも生死もない「不生の仏心」で暮らすように説かれました。)  不生禅をわずかながら勉強してみると、良い教えだと思います。  生まれることもなければ、滅することもないという禅の境地を言っていると思います。    

不生禅を自分の言葉にしながら、皆さんにお伝えしていきたいと思います。  禅宗には三黙堂というのがあって、食堂、浴堂、東司(とうす お手洗い)、ここでは自分ではなくなる瞬間、五感すらなくなるような、解放された瞬間見たいなものが無言の中にある。   不生に近いかなという気がします。  うちが目指すものは、そこを判りやすく、おいしい、楽しい、美しい、ここを感じてくれれば、それが盤珪さんが言われる、物心おこ(悪好?)ありありと見いだせる時なのかとは思います。                 盤珪さんの教えに一寸だけでも近づけられたらいいなあと思います。  最大の魅力はゴールがないという事です。