井垣伸子(関西学院大学ジェネラティビティ研究センター 前センタ長) ・次世代を育てる~新しいシスターフッド
井垣さんは1955年東京生まれ、津田塾大学、大学院で数学を学び名古屋商科大学、帝塚山大学を経て2005年から今年3月まで関西学院大学の教授として学生の指導に当たって来ました。 2020年に設立された関西学院大学ジェネラティビティ研究センターの初代センター長としてプロジェクトを運営してきました。 ジェネラティビティとは生み出すという意味のジェネレートと世代を意味するジェネレージョンを掛け合わせた造語で、「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわって行く」という意味だそうです。
今は定年後の準備期間という感じで、4年生だけゼミを1週間に1回だけ担当しています。 来年からはフリーになります。 ジェネラティビティとはもともとは心理学の学問の世界の中の専門用語です。 エリクソンという心理学者がいて、その人が作った造語です。 アイデンティティーという言葉を作ったのもエリクソンです。 日本語に訳しても「自己同一性」という事でよくわからなかったが、今は日常的に使っています。 ジェネラティビティも今は馴染みのない言葉かも知れないが、何年か経つとみんなが使うような時代がいいなあと思っています。 自分のことだけでいっぱいで自分以外のことには気が回らないという状況があります。 中年以降のどこかのポイントで、次世代のことを考える、自分の外の社会のこと、地球のこと、そういった外側に目が向くという心理的な変換期をエリクソンは見つけた。
数学、応用数学を学生に教えてきましたが、研究センターを大学の中に立ち上げたりするとは思ってもみませんでした。 関西学院大学の総合政策学部にいるんですが、社会の現実の問題を考えるという学部です。 そこに20年前に転任してきて、私も何かやりたいとずーっと思っていましたが出来ずにいて、ジェネラティビティという言葉に出会って、私の定年までの3年間はこれに掛けようと思いました。
小さいころから算数は好きでした。 高校では数学しか勉強したくなかった。 母からは好きなことをやりなさい、働きなさいということは言われていました。 大学の1年生の時には寮に入って勉強しましたが楽しくってしょうがなかったです。(毎日が修学旅行みたいな感じ。) その後下宿しました。 博士課程が修了するとすぐに名古屋商科大学が決まりました。 「うちは商学部だから、純粋数学ではなく、もっとビジネスに役立つ内容を教えてほしい」と言われ、半年間アメリカのペンシルバニア大学に留学し、応用数学を学ばさせて貰いました。(当時41年前は女性の教員は私だけでした。) 博士号を取るのには18年間かかりました。(45歳) 途端に気力がなくなりました。
趣味はたくさんあります。 音楽関係ではピアノ、ギター、ドラム、などなんでもやりたくなるんです。 スポーツでは卓球は本職みたいにやっていました。 テニス、スキーなど、最近ではキャンプをやったりしています。 私にとって遊びが論文を書くことからの逃避行動でしかないわけです。(気分転換) オートバイもやりました。(オートバイを教えてくれたオーナーが19歳で全日本のチャンピオンになった人で大先生した。)
シアトルのワシントン大学に1年間行きました。 その時に純子さんに会う事になります。 武田宗徳さん以外は全員アメリカ人で能ミュージカルみたいなものをやりました。 それをシアトルタイムズの一面に記事が載りました。 それが夢に見ていたボランティア活動の最初でした。
日本に戻ってジェネラティビティ研究センターを立ち上げました。 アンケートを行って、若いころは自分のことだけが心配だけど、ある時点で次の世代の事を考えだすという意識がそこで交差する訳なんです。 このポイントのところを「目覚めポイント」と名付けました。 男性の場合、定年後60歳から70歳で「脱自己本位的態度」への関心が強くなる。 自己も成長したり充実感を持つ。 女性は年齢を問わず、ずーっと成長するんです。 クリエーティビティーが女性の場合はちょっと弱いんです。
ジェネラティビティは次世代のことを考えるだけではなくて、自分の自己実現というクリエーティビティーが深く関わっているんです。 そこが大事なポイントだと思います。 自分の中に向いた時がその人の力がでるという、そういう事なんです。 自分がどうしてこの世に生まれて来たか、とか、深く深く追求して、その結果自分がこういう人間だという、そこを使った社会貢献、その人にしかできないもの、そこで外とつながるという、これが本当のジェネラティビティだと思います。 魂レベルで自分の中から湧き上がってくるものそれを見つけること、それが社会と貢献することに繋がるんです。
「50代からの生き方のカタチ 妹たちへ」去年出版しました。 50代ぐらいでこのまま人生終わっていいのかなあと悶々としている人が多い。 女性をターゲットにアドバイスを頂こうと思って、平均年齢83歳(一番若い人がやましたひでこさん、最高齢が鮫島純子さん 今年1月に亡くなる)の方々にメッセージを残してもらいたいなあと思いました。 東北旅行の企画があり、渋沢栄一のお孫さんである鮫島さんが来るという事でその旅行に参加しました。 青森の「森のイスキア」(佐藤初女さん)にも一泊するという事でした。 当時93歳で鮫島さんと同い年でした。 ツーショットを写真に残そうと思いました。(写真も趣味) 半年後佐藤初女さんが亡くなりました。
本の中の鮫島さんの言葉のなかの一部。 「・・・世界の平和なくして人は幸せにはなれないと言いう事です。 「百の世の長き命を預かりて、子らに伝えん平和の尊さ」 生きていればいろいろなことがあります。 ・・・心の平和を選択するという事をどうか忘れないでください。 世界を美しい色で色どり平和に導いてゆくのは、他でもない私たち一人一人なのですから。」
この本の12人のほかに応援団があってその応援団長が、デザイナーの鳥丸軍雪さんです。 ダイアナ妃が日本に来た時の最終日の天皇の晩餐会でダイアナ妃が着ていたドレスが鳥丸軍雪さんのデザインのドレスでした。 鳥丸軍雪さんは凄くジェネラティビティの強い人です。 直島には残っていたものがほかのところには残っていない、これこそジェネラティビティだと思いました。 日本の原風景がここにあったんだという、そしてここに現代アートを持ってきて、まさにジャネレートして作りだした。 直島に行って世界中の人が来ることがわかりました。 西脇市に伝統的な播州織という織物があるんですが、そこに新しい風を吹き込んでいる玉木新雌さんという女性がいます。 今世界中に出しています。 岩城紀子さんは日本の伝統的な方法で作った食材を作っているが潰れそうなわけで、自分で店を作って売ろうという事でそれを売って次世代に残しているんです。
人と人を繋ぐことによって、そこに化学反応が起きてくる、私にできることはそこだだなと思って貢献していこうかなと考えています。 「気が済むまでやろう。」という事。 日々の生活のなかで生きている充実感、そういった物を持ってほしいと思います。 経済的な一つの尺度でみんなが動いてしまっている、そういったことに危機感を感じます。