2023年7月20日木曜日

村松喜久則(民謡パフォーマー)     ・〔わたし終いの極意〕 元気の秘訣は民謡にあり!

 村松喜久則(民謡パフォーマー・東京の民謡を歌い継ぐ会会長)・〔わたし終いの極意〕  元気の秘訣は民謡にあり! 

松村さんは長野生まれの東京育ち、74歳。  大学在学中に民謡歌手の原田直之さんに弟子入りしました。  歌手活動の一方で東京の民謡を歌い継ぐ会長として、これまでに300曲近い東京民謡を復活させています。   さらに民謡の魅力を伝えたいと、近年は民謡ミュージカルや、民謡落語、動画サイトでの発信など新たな境地を開きつつ、後進の育成にも力を注いでいます。 

*「秩父木挽唄」  歌:村松喜久則

角材を板に挽くのが木挽きの仕事です。 民謡パフォーマーと名乗っていますが、現在歌手活動に加えて民謡ミュージカル民謡落語、動画サイトでの発信など、民謡を核としたさまざまなエンターテーメントに挑戦していまして、幅広く民謡の魅力を知っていただきたいと、多種多様な芸を演じるという事で民謡パフォーマーにしました。   落語は三遊亭圓丈師匠の晩年に落語の手ほどきを受けました。  ミュージカルの方は一時役者をやっていたこともあり、芝居台本を書いています。  「笑えばこの世はパラダイス」、「鶴の恩返し」の脚色、民謡バージョンにしました。 

動画サイトで発信している、10倍速の「八木節」が若い世代に大人気になっています。

「八木節」 通常バージョン  歌:村松喜久則

10倍速の「八木節」     歌:村松喜久則  実際は3倍速ぐらいです。

子供のころは東京に住んでいて、民謡を聞くことが全くありませんでした。 小学校5年生の或る日、ラジオから民謡の歌(同世代)が流れてきて、カルチャーショックを受けました。    民謡のこぶしにしびれました。   レコードを買ってもらって聞き覚えで歌っていました。  中学では師匠に付きました。  太鼓も勉強して太鼓に夢中になりました。  民謡歌手の原田直之先生との出会いがあり、大学在学中に弟子入りしました。 4年生の時に大学紛争で、ロックアウトになり卒業前に内弟子になりました。    朝10時から夜の10時まで自宅稽古、出稽古は一日4か所と凄く忙しかったです。  

25歳の時に民謡大会に出て、結果は3位でしたが、レコード会社から誘いがあり、レコードデビューしました。   民謡ブームもあり順調でした。   「東京民謡を歌い継ぐ会」の代表も現在しています。   江戸時代には全国から人と共にいろんなものが集まって来ました。  歌や踊りも集まってきました。   民謡は人々の暮らし、日本人の豊かな心を表している歴史の証しとも言われます。  東京全域に都市開発が押し寄せ、農林水産業が衰退してゆくなかで東京民謡も忘れられて行ってしまう。

*「櫓胴突き唄」 家の普請で杭を打つ時に、丸太をピラミッドの形に立てて重い鉄の重りを「ヨーイ」と言った時に引っ張り上げる。 「コーラ」で手を放す。 杭の頭にドスンと落ちる。  音頭取が息を合わすために歌ったそうです。  田植えなども歌う事で仕事がはかどったそうです。    東京民謡の特徴は節の上がり下がりが激しい事、音の幅が広い、旋律が直線的で江戸っ子気質を表して歯切れがいい。  元気じゃないと歌えないし、元気よく歌っていると元気になるんです。

演出家の岡本和彦先生が高校時代から集めていて、何とか残したいという事で、「東京民謡復活の会」を始めて、私にも声をかけていただきました。  昭和59年から始まりました。  音源資料が残っていました。 またお年寄りを訪ねて取材しました。    残してほしいと足を運んでいただいた方もいました。  つき2回東京都内を公演して歩きました。  オールナイト民謡フェスティバルという事で浅草で27年やらしていただきました。  昭和56年から57年にかけて調査した時に、純粋の民謡は700から800ありました。  その中から300曲ほどが私たちの手元に資料としてあります。  そのなかの274曲を復曲して127曲を音源化(CD)しました。    設立から40年になります。  

民謡には思いやりと優しさがあります。  「歌う事で愛の泉が湧く」という標語を作りました。  自我、利己心を捨てて、純粋に他人の利益を考える「利他の心」で生きることを学ぶ事が出来ました。 

父は2005年に亡くなりました。(85歳) ソーメンを食べ、おしっこを手伝って、私の腕の中で亡くなりました。  母は2014年に亡くなりました。(92歳)     認知症が進む中、最後の10年間は身動きが出来ない完全介護の状態でした。    民謡を歌ってというとちゃんと歌うんです、ちゃんと覚えているんです。      亡くなる最後の言葉が「則ちゃん」でした。  切なく嬉しく涙しました。     母の介護は10年続きました。  妻の母親も一時期同時に介護していました。       

母はユーモアのある人で、自分でも笑って過ごすという風にしたいと思います。     民謡をずーっと続けてゆくこと、少しでも皆様方に元気をあたえ、喜んでいただけるような芸を披露し、芸能活動を通じて少しでも世の中のお役に立てればと思っています。   わたし終いの極意としては、「大変さを楽しみ、老後を笑って過ごす。」という事です。  母のお陰です。  民謡が精神安定剤の音楽だと思っています。

*「神津音頭」     歌:村松喜久則   もともとは伊勢音頭です。