野村喜和夫(詩人) ・〔私の人生手帖〕
野村さんは現代詩のトップランナーの異名を持ち、長年に渡たって現代詩を牽引してきました。 その創作活動と昨年刊行された最新詩集「美しい人生」が評価され、先ごろ日本を代表する詩人大岡信さんの名前を冠した大岡信賞を受賞しました。 野村さんは1951年埼玉県生まれ。 中学高校時代から詩を書き始め、大学院を中退後、50歳まで大学の非常勤講師などフランス語の教師を務めました。 1999年高見順賞、2011年鮎川信夫賞など多くの賞を受賞、評論や翻訳なども手掛けるなど幅広く活動してきました。 今日は常に困難と共にあったという現代詩の詩人としてのこれまでの人生と共に歩きさ迷いながら詩を生み出してきたという野村さんの詩のスタイルについても伺います。
パリは親しい他人みたいな感じです。 最初に行ったのは20代の終わりごろです。 パリで自分の青春は終わったという感じです。 大岡さんは僕にとっては大恩人で大岡信賞は特別な感慨があります。 高見順賞、花椿賞の時に大岡さんは選考委員をしていて、こういいました。 「今の詩壇で野村ほどの詩人馬鹿はいない。」 (全身全霊で詩に取り組んでいる。) 僕の詩人人生の大きな励みとなりました。
最新詩集「美しい人生」 ある時期から複数の詩集を同時進行的にやっていまして、「美しい人生」もその一環です。 書いているうちに、人生は本当に美しいかもしれないと思うようになっていました。 アイロニー(本当の考えや意図と違う考えをほのめかすことによって伝えること)がアイロニーでなくなる瞬間と言った感じです。 人生を放り投げてみたらどうだろう、人生を海の彼方に開放してやったらどうだろう、そうしたら美しくなるのではないだろうか、と思いました。
「美しい人生」の中から詩「頌」
(スピノザ:17世紀のオランダの哲学者 人間の欲望とか、情動に深い洞察を加えた哲学者。 西脇順三郎:ノーベル文学賞の候補にもなった昭和期を代表する大詩人。)
「もしも計りにかけることが出来るなら 一瞬は重く永遠は軽い パスカルをもじっていうなら 人間はただそこに立つ一本の樹木に過ぎない。 ただ時より鳥が止まりに来てさえずり 樹木は自身の奥深くからやってきた声の様に聞きとり 何とも言えない喜びを覚える それが共生という事だ 樹木はそのような喜ばしい作為に 鳥という他者によって与えられたのである。 鳥も又樹木へのそのような贈与によって いわば鳥以上の存在となったのである。 丸く琥珀に閉じ込められた様に秋の日 もうバッハしか聞かなくなりました。 君は手紙でそのように心境を伝えてきた もろくろ草の群落から 枯れ枯れの百日草の花口へ なお強い日差しの中を飛ぶ蝶と共に歩む我々には 実際バッハしか聞こえないのかもしれない それが美しいから近づくのではない 近づきたいという衝動がそれを美しくするのです 時には書き加えていた スピノザの淡い繁栄 僕は僕でゴルトベルク変奏曲などを聞きながら 秋にぴったりな西脇順三郎の詩を読み 西脇には何故かバッハが似合う事を発見したりした 白壁のくずるる街を過ぎ 路傍の石、寺に立ちより 曼荼羅の織物を拝み 枯れ枝の山の崩れを越え 水抜きの長く映る渡しを渡り 草の実の下がる藪を通り 幻影の人は去る 永劫の旅人は帰らず 読んでいる間僕の耳には 無伴奏ヴァイオリンパルティータの音の唐草模様が絶えず絡んでいた 生きる喜び それを最も強く与えられるのは 何かが猶予された時であり ある決定的な事柄が先に延ばされ ひと先ず時間が宙釣りにされると 私たちはモルヒネを打たれた様に 甘美な弛緩や神経の端々迄 波動として伝わってゆくような幸福な物質となる それから間もなくのことだ 君の訃報がもたらされたのは どこからか冬鳥も飛来して ふらふらと庭石の上に止まる その羽根をのぞき込んで 僕は死んだ君からのメッセージを読み取ろうとした。 もうバッハ もうバッハ もうバッハも聞こえない 消える永遠の正しい泡?であるべきか 我々は」
「消える永遠の正しい泡」は言葉の遊びがありまして、西脇順三郎を真似した様なところがあるんですが、我々の存在というのは、無常、迅速と言いますか、大変あわただしいものです。 そのあわただしいをひっくり返すと、「ただしいあわ」になります。
日本語ですと、詩と死は同じ音なんですね。 そこからいろんなことが考えられます。 僕もいつ死んでもおかしくない年齢になっています。 遺稿を書くつもりで書いています。
生まれは埼玉県の入間市で、当時は純農村地帯でした。 最寄りの駅まで歩いて40分ぐらいかかりました。 家は製茶業を営む農家でした。(狭山茶) 野山を駆けまわって遊んでいました。 中学ごろから詩らしきものは書いていました。 初恋、性への目覚めと文学への目覚めがシンクロしたと言いますか、そういう時期がありました。 本格的の現代詩を書こうと思ったのは大学に入ってからです。 吉増剛造さんの「黄金詩編」という詩篇が刊行されて、観たらたちまち引き込まれてしまいました。 大学に入学したのは1970年です。 戦後の激動の時代は去っていました。 虚無感があり、何を書いていいのか、というところからの出発でした。
大学、大学院に進んで、孤独な生活を送って詩をかいていました。 大学院の時に指導教授に渋沢孝輔という詩人で、ランボーの研究者でもありました。 ランボーは15歳から20歳までに世界文学に燦然と輝くような詩を書いた後、アフリカへと去った詩人です。 渋沢先生とマンツーマンでランボーの詩を徹底的に読み込み、自信が生まれました。(30歳前後) 現状に対しる怒り、世界を変える、世界は言語で出来ているので、既成の言語を破壊して新しい言語を作るという事ですね。 それをランボーは実践しようとして、結果は挫折してしまった。 そういう行為に憧れました。
若いころ、生き難さがありました。(社会的不適応) よりどころになったのが詩でした。 第一詩集が1987年(36歳) 「川萎え」 パートナー(ボードレールを研究)は詩人が第一という事で大目に見てくれる人でした。(経済的援助も含め) 彼女は後にフラメンコダンサーのなりました。(野村眞里子) 詩のフェスティバルも何回かやりました。 二人で「一般財団法人エルスール」を設立しました。 2017年には自宅を改装して「ひとダンスミュージアム」を開設しました。
代表的な評論集のタイトルが、「移動と律動と眩暈と」といいます。 この3つが詩作のキーワードになっています。 歩くとリズムが生まれてきます。 不思議と言葉が生まれて来ます。 それをさらに続けていると或る種恍惚といった状態になります。 それが眩暈という事です。 机に向っては詩はなかなか出てこない。 言葉が何となくやってくる。 72歳になります。 詩人になろうと心に決めた瞬間が人生最大の転機でした。 1997年から1年間パリに滞在したことがありますが、第二の岐路かもしれません。(日本の仕事を放棄) そこで詩を書いて纏めたのが「風の配分」という詩集でした。 それが高見順賞を受賞することになりました。 その後の詩人人生がやり易く成りました。 日本の現代詩を海外に紹介していきたい。
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