アニメ「ワンピース」のルフィー、映画
、NHKで放送中の「忍たま乱太郎」の霧丸の声などでお馴染みの田中真弓さんです。 声優として抜群の人気度と知名度を誇る田中真弓さんですが、実は声優であり俳優であり演出家の熊倉一雄さんが代表を務めていた劇団「テアトル・エコー」の出身で、今も2か月に一度は舞台に立ち、自身でも劇団を主宰しています。 田中真弓さんを育てた熊倉一雄さんについて伺いました。
「熊さん」と呼んでいました。 動物の熊と間違えないようにアクセントがうるさかったです。 養成所の1年生の時から声の仕事をやらせてもらえました。(異例) 最初は「熊倉先生」でしたが、仕事を一緒にやる時には「熊倉さん」そのうちに「熊さん」になりました。
熊倉一雄さんは昭和2年東京南麻布で生まれます。 子供のころから音楽に親しみ、学生時代からは演劇を志すようになって、劇団「テアトル・エコー」に決めたのは昭和30年28歳の時でした。 しかし、当時劇団は資金難から解散寸前でした。 翌年有志によって再建された「テアトル・エコー」の代表に就任した熊倉さんは、喜劇俳優、演出家として活躍し、劇団を支える一方で、コント赤信号の渡辺正行さん、小宮孝奏さん、ラサール石井さん、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さん、寺門ジモンさん、俳優の松金よね子さん、田中真弓さん等を世に送り出します。 熊倉さんは声のジャンルを確立させた声優の草分け的な存在の方でもありました。 「ヒッチコック劇場」でのヒッチコックの吹き替え、「ひょっこりひょうたん島」の海賊「トラヒゲ」や、1990年から25年間に渡って放送、今またBSプレミアムと,BS4Kで放送中の「名探偵ポアロ」のポアロ役も代表作の一つです。 晩年まで舞台に立ち続けた熊倉一雄さんが亡くなったのは2015年10月、88歳でした。 逝去から8年が経ちました。 代表を務めた「テアトル・エコー」の公式ホームページには今も熊倉一雄さんの挨拶と共に、「わが国では長い間喜劇が好まれませんでした。 一段程度の低いものと卑しめられてきました。 私たちは喜劇こそ現代を映しうる演劇と信じ、喜劇の復権を目指します。」と書かれています。
小学生の時から演劇が好きで、学芸会、国語の音読が好きでした。 朝には連続テレビ小説「おはなはん」をみて、私は18歳になったらこれに抜擢されるんだと思ってしまいました。 俳優座に入りたいと思っていました。 桐朋学園芸術短期大学演劇科を受けようと思っていましたが、受かりませんでした。 渋谷の酒場で「テアトル・エコー」の音響人が来ていて、「うちの劇団に会うような気がする」といわれて、行ってみると、舞台上に知っている声がいっぱいいあり、自分と同じように背の小さい人も多かった。 養成所に入ることになり、そこに熊倉一雄さんがいました。
熊倉一雄さんのキャラクターを通して人間性が出てくる。 自分でまねしてもちっとも面白くない。 山田康雄さんも同様でした。 1978年に『激走!ルーベンカイザー』(高木涼子)で声優デビューすることになりました。 喜劇って、緊張していると駄目なんです、身体が緩んでないといけない。 全部お客さんに移るんです。 自分を作り上げてゆく作業は大変だし、恥をかいて、血を流して覚えて、それをやり続けてゆく。 好きだからやり続けてこれました。 熊倉先生って、素敵なところは何もないですが、面白いですね。 原稿がなかなかこない事もありますが、「待つのも仕事」と言われました。 養成所に2年、劇団研究生が4年でした。
1988年劇団「おっ、ぺれった」を結成。(手作り的) 熊倉先生が観にきてくれて2,3回目に「進歩無し」と言われて、 マンネリがいい部分とそうでない部分がりますが、「進歩無し」と言われた時にはちょっとっした反発もありました。 普通「テアトル・エコー」を辞めた人が出ることはないんですが、私も出て熊倉先生の懐の深さを感じました。 (ラサール石井演出による「お手を拝借」) 安西正弘さんが糖尿病の悪化で足を切断しましたが、車椅子の役をラサール石井さんが設定して、安西正弘さんも出演しました。
2015年10月12日都内の病院で亡くなる。 「お手を拝借」の時には目は相当見えなくて、そろそろかなという覚悟はありました。 2015年は母も亡くなってダブル感じがあります。
熊倉さんへの手紙
「「テアトル・エコー」養成所時代、劇団研究生時代、アテレコ、演劇のこと、釘の打ち方などまでいろいろなことまで教えていただきました。 本当にありがとうございました。 ・・・一番感謝していることは「欠点は自慢すれば個性になる」という事です。・・・私も鼻の欠点がありました。・・・君の大先輩の熊倉一雄も同様だと或る人から言われました。・・・私は鼻の手術をしないことにしました。・・・一般的に言ったらマイナスかもしれないものをすべて武器にして唯一無二の輝きを放っているんです。・・・68歳、私もすべて自慢して異臭?かもしれない輝きを放って生きてゆきます。・・・」