石原まき子 ・「やっと裕さんの嫁になれました」 1987年に 夫の石原裕次郎さんを 病気で亡くしたまき子さん 、2021年に石原プロモーションを解散し、同じ年にNHKの番組に放送した「ありがとう裕さん さらば石原軍団」には命ある限り裕次郎の名前を守りますとコメントを載せていました。 まき子さんは映画界のトップ女優北原三枝という名前を捨て、裕次郎の妻石原まき子として生きることを選び、裕次郎さんを支え続けました。 90歳の今、自分自身や裕次郎さんについてどのような思いを描いているのか、伺いました。
最後は病気のために減塩食で終わった人で、病院の減塩食は絶対に嫌がって駄目でした。 私が自分で編み出しながら、減塩料理を編み出しました。 今は神経質にならずにやっていて、その分数字に弱くなりました。 私が現役から引退したのと同じで、石原プロモーションをたたんで、現在になっているので、責任感もなくなってやっと私も石原家に嫁に来て、嫁の立場、嫁でいいんだなという事でのんびりやっています。 石原プロは制作会社なので、制作に関わってきた人たちが、ほとんど裕次郎さんと同年配でしたから、亡くなったり病気になったりして、映画制作への情熱はありますが、身体がついていけなくなって諦めて現在の音楽出版という名前に変更して、スタッフも若い人たちに頼りだしました。
裕さんが復帰できなくなるような病状になって、或る時聞いて欲しいと言う事でした。 「僕がいなくなったら、石原プロはすぐたためよ。」と言いました。 それが遺言でしたが、スタッフの方々の頑張る姿をみると、皆さんに言えませんでした。 記念館が出来たり、製作もできる様にもなって、会社が回るようになりました。 歳を経て居なくなる人たちも出てきました。 やっと今裕次郎さんの嫁になったという感じです。 嫁時代を取り戻したいです。 いつも留守番でした。 52歳で亡くなりましたが、結婚生活は30年程度でした。 でも銀婚式、金婚式は裕次郎さんがいるように皆さんがお祝いしてくれるんです。 結婚生活を50年、60年と続いている感じです。
結婚した時に裕次郎さんから「お酒はやめません。 朝帰りはいたします。 海ははいつも好きな時に出ます。(ヨット) 車も好きな車に乗ります。 自分のところに来た封書は開けては困ります。」と言われました。 本当に実行します。 たまに、これから帰るから誰それさんと誰それさんの食事を用意してほしいと言います、それが夜中です。 全部料理します。 最初は料理はあまりできなかったが、段々料理を覚えてゆくわけです。 5人、10人来てもそれなりのやり方が出来るようになりました。 裕次郎さんがラッキーだったのは、一つ年上だったので、お姉さんで、料理人、看護師で、母親で、奥さんなんです。 お姉さんぽく慕ってくれました。
歳を重ねるにしたがって、ストレス解消の一環なんだなと、そういう解釈が出来るようになりました。 若い時はつらかったですが。 朝がたに大勢連れてきて、これだけは何とか辞めて貰いたいと思って義母に話しましたが、「私もそうやってきたのよ。」と言われてしまいました。 義母に倣って、義父も待合、お酒の席が大好きだったので、その席に義母は菓子折りを持ってきましたが、私は足袋とか、半襟とか持っていきました。
義母はとってもモダンな人でした。 私の母は山口県の田舎から東京に嫁に来て、戦争で家が焼けて、庭に野菜を作って何とか生きることにしのいできました。 二人を見てきたので、やってこられました。 あっという間に撮影所のなかに溶け込んで行く素直な性格があり、友達もわっとできる。 若い俳優さんたちとは遊び歩き、スタッフ、裏方にはいいおじさんとして友達がいっぱいできるわけです。 石原プロが出来た時にはそういった人たちが集まってできたわけです。(28歳) 「黒部の太陽」を作った時は33歳でした。 協力体制が出来ていました。
以前は女優として我儘なところもありましたが、私はこういう星の下に生まれたんだなと、それだけです。 もうこれ以上やったら会社もつぶれるかもしれないと思ったら、映画が大ヒットしたり、いい方向に向いてくれました。 駄目そうになると歌がミリオンセラーになったりしました。 21歳で映画界に突然現れて、混乱期から丁度高度成長期に広まっていき若者たちを引っ張り上げました。
私がこの世界に入ったのが15歳でした。 背がどんどん伸びて、相手とはいつもローヒールでした。 初めて裕さんと出会った時に、やっとハイヒールが履けると思いました。価値観が全く同じでした。 ただ鶏肉だけが裕さんは嫌いで私は大好きでした。