村井邦彦(作曲家・音楽プロデューサー) ・文化人との交流で生まれた数々の物語
村井さんは慶應義塾大学に在学中に作曲家として活動を始め、その後レコード会社を設立、新井由実やYMO(イエローマジックオーケストラ)など数多くのアーティストを輩出しました。 その音楽への情熱の原点は東京六本木のイタリア料理店での著名人との交流でしたが、先日村井さんは店に集った人々の物語を一冊の本にまとめました。
「モンパルナス1934」というヒストリカルフィクションと呼んでいますが、歴史の事実に基づいた小説を日本経済新聞社の吉田俊宏さんと二人で書いて出版したので、それと映画化の話もあり日本に来ました。
音楽との出会いは幼稚園ぐらいからです。 父親がレコードを集めて持っていました。 その中でも興味をもったのがジャズでした。 大学はジャズのオーケストラに入ったりしました。 学生ビッグバンドサークル「ライトミュージックソサエティ」に所属しました。(1946年発足) 大学のオーケストラで編曲をやるようになりました。 卒業コンサートで初めてビックバンド用のオリジナルの曲を書きました。 大学卒業間際にレコード屋を始めて、ヒットソングがどんどん売れていきました。 自分でも作曲できるのではないかと思って、ビッキーというギリシャの歌手が日本に来るのでその人の曲を書いて欲しいという事で書きましたが、それがプロ作家としてのデビューになります。
子供のころから本とレコードが大好きで、小遣いは全部そっちの方に使っていました。 それでレコード屋っていいなあと思いました。 レコード会社立ち上げ前に書いた作品、テンプターズの「エメラルドの伝説」、モップスの「朝まで待てない」、ズー・ニー・ヴーの「白いサンゴ礁」。 音楽出版社アルファ・ミュージックを設立。 パリに行ってパリ・バークレー音楽出版社と仕事をしました。 その時に「マイ・ウェイ」などの日本国内における版権を獲得しました。 それが最初の仕事でした。
日本では電機メーカーの子会社がレコード会社をやっていましたが、向こうは多くがレコード屋をやっていた人が会社のトップになっているんです。 その点が僕と似ていました。そういった自由なレコード会社を作りたいと思って、レコード会社を作りました。 決定的だったのはユーミンです。 細野晴臣にも会う機会がありこの人は凄いと思いました。 ユーミンの「ひこうき雲」を作ることになり、細野晴臣に伴奏を頼みました。
川添浩史(伯爵、貴族院議員である後藤猛太郎の庶子として生まれる。)さんと奥様の梶子さんが始めたのが「キャンティー」という1960年創業のイタリア料理店でした。 友だちがいたので、そこに入りびたりでした。 梶子さんから、たべもの、骨董、とかいろんなものを感覚的に教えてもらいました。(センスを磨いた) 「キャンティー」は政財界、文化人の物凄いメンバーが集まったお店でした。 レストランのモットーは「大人の心を持った子供たちと、子供の心を持った大人たちの集まるところ」という事でした。 かまやつひろしさんはここは夜の学校だといっていました。 川添浩史さんは戦前パリに長くいたので、友人も多くて、有名な人たち(クリスチャンディオール、イヴ・サンローランとか)沢山来るんです。 凄く恵まれた環境でいろいろ体験しました。 どんな大芸術家であろうと拙い英語で質問すればちゃんと真面目に答えてくれる。 ちょっと外国語を勉強すれば、世界中の人と通じ合えることができるという事は、目からうろこでした。 川添浩史さんは友人関係を大事にする人でした。 それも大きな影響を受けました。
「モンパルナス1934」の本には川添浩史さんと文化人との交流などが詰まっています。 川添さんは早稲田に行っていましたが、戦前の学生運動で捕まって国外追放になるんです。 川添さんのおじいさんが後藤象二郎という、明治維新の建国の父の一人ですね。 1934年、21歳の時にフランス、モンパルナス行くわけです。(日本で牢屋にいれることができない) モンパルナスは当時場末で、金がない芸術家、学生がたむろし易い場所でした。 国外の芸術家たちも流れ込んできていました。 そこで川添さんは一生の友達になるわけです。 一番仲良かったのがロバート・キャパという後に写真家として大成する、ノルマンディー上陸作戦の写真を撮ったりする人で一生の友達になるわけです。
戦後に会って 1954年彼はベトナムに写真を撮りに行きます。 フランスからの独立戦争です。 そこで地雷を踏んでキャパは死んでしまう。 キャパが書いた「ちょっとピンボケ」を川添さんが翻訳をして出しました。
日本経済新聞社の吉田俊宏さんはジャーナリストで、日本経済新聞社と契約を交わしているので、そちらの情報、歴史などを含めて書いていきました。 川添さんから聞いていたことは点でしたが、線となり、平面、立体になって行きました。 川添さんがどんな人生を辿ってきたのか、日本がどんな道を歩んできたのか、という事に興味があって書いてきました。 自分自身の歴史を振り返ることもできました。 川添さんが1970年に亡くなって、その翌年に焦燥した梶子さん、奥さんをカンヌに招待するというのが、小説の最初となります。 1970年は大阪万博で富士館(富士銀行グループ)のパビリオンの担当プロデューサーを川添さんはしていました。 準備を終えて始まる前に亡くなってしまいました。 それが小説の最後になります。
アメリカに音楽出版会社を設立しました。 その経営のために3~5年と思って引っ越しましたが、子供たちがアメリカの教育システムの中に入ってしまって、そのまま住むことになってしまいました。 高橋幸宏さん、坂本龍一さんが亡くなりましたが、残念です。