2023年7月27日木曜日

田中みずき(銭湯ペンキ絵師)      ・〔私のアート交遊録〕 銭湯ペンキ絵~Notアート、BUT Paint

 田中みずき(銭湯ペンキ絵師・〔私のアート交遊録〕  銭湯ペンキ絵~Notアート、BUT Paint

昭和40年頃街にはいくつもの銭湯がありました。  銭湯の最盛期には東京には数十人の銭湯ペンキ絵師がいたと言いますが、現在は田中みずきさんを含めて3人。  子供のころから絵を描くことが好きだったという田中さん、高校時代は現代美術を目指していましたが、大学で卒論をテーマに何故銭湯の壁に富士山が描かれ続けてきたのか、を書いたことをきっかけに、銭湯ペンキ絵師の道を志します。  見習い期間を含めて9年で独立し、結婚して、子供を出産、子育てをしながら銭湯絵師の道を歩んでいます。  仕事は銭湯の休業日または開店前の数時間、足場を組むことからスタート、下書きはなし、まさに時間が勝負です。  店主とお客さんを繋ぐ会話の糸口になるような絵を描きたいという女性ペンキ銭湯絵師の田中みずきさんに銭湯ペンキ絵にかける思いや夢を伺いました。  

浴槽の上に木の板を組んで、ペンキで3原色の赤、青、黄と白を混ぜていろんな絵を作って絵を描いていきます。  匂いの強いものではないものを使用しています。   大きな木の板に枠を取りつけてなるべくペンキが沢山混ぜられるように、という形で使っています。    筆、ローラーを使ったり、大きな刷毛、細い筆などを使って描いています。

大まかに2,3年は綺麗に持ちます。  営業時間、換気の程度などによって違ってきます。   富士山を描いて欲しいというのは8,9割あります。  最近は地元の名勝を描いて欲しいとか、地域のキャラクターを作っているので、キャラクターも一緒に描いて欲しいというような問い合わせもあります。    男湯の方が波が高かったり、ドラマチックに描かせてもらう事がおおくて、女湯は桜のピンクの花の絵とか、穏やかな明るめの絵にさせて貰っています。   

富士山は静岡側から、山梨側からというような要望もありますし、遠くに描いたり、朝焼けの赤い富士山とか一回一回違う富士山を描いています。   富士山がどのように受け入れられてきたかという事を調べたりしてきました。   北斎の作品のなかで見ると美しく形が決まっているんですが、先のとがった富士山になってしまうので、落ち着かないものになってしまうので、北斎しか描けない富士山だと改めて思いました。  ゆったりと眺められる富士山を考えています。  

私は9年ぐらい修業をしました。  足場の組み方、現場現場でどの様にして銭湯らしさというもの出してゆくのかなど、銭湯の空間自体を把握して、ペンキ絵を段々自分の中で組み立てていった様に思います。   最初は荷物を運んで、ひたすら青空を描くという修業をしてゆきます。  3,4年空を描き続けます。  その後遠景の小さい松を描いたり、少しづつ絵描くところが増えてゆきます。   現代の名工の一人である中島盛夫さんに弟子入りしました。  「見て盗め」という事は何度も言われました。  描けるようになってきてからどこを見て行けばいいのかという事が判る様になって来ました。

独立する1年ぐらい前に、一軒の男湯、女湯を描かせてもらいました。   「仕事がきたら受けてみなさい。」と言うようなことを言われました。  銭湯が休みの一日に行います。  朝8時に伺って夜7時ぐらいには終わるようにしていますが、初期のころは夜中までかかったりしました。  天井に近い部分から下に向かって描いてゆきます。  効率を考えて描いていきます。  描き始める時には頭の中には全体の完成した形は出来ています。  私は個性を狙って描くことはないです。  他の人を真似しようと思って描いても真似ができないとことは分かっています。  

小さいころから絵を描くことは好きでした。  父が新聞記者で美術の批評、美術の事を書くという事をしていたので、父に連れられて美術館に行くという事がよくありました。   美術作品が作れるようになればいいなあと思っていました。  高校では現代美術が好きになっていました。  デジタルアートに興味が移って行きました。  美術史を勉強できる大学にと思って美術史を専攻していきました。  それまで知らなかったものの見方、新しい歴史の発見からそれまであった作品が全然違う視点でみられるようになって、凄くおもしろくなりました。  現代美術の福田美蘭さん等が好きでした。  ペンキをモチーフにした作品を作っていました。   束芋さんがアニメーションのような形で映像作品と銭湯のような装置を組み合わせて作品を作っている方がいました。   銭湯もモチーフにできるんだと思いました。  ペンキ絵も面白いと段々のめり込んでいきました。

担当の山下裕二先生は現代美術にも造詣の深い方でした。  一遍上人の絵とペンキ絵のどちらがいいでしょうかと相談に伺ったら、「面白いから銭湯ペンキ絵をやった方がいい。」と言われました。  そこからペンキ絵について調べ始めました。  富士山が世の中でどう受け止めてられたのか、絵画のなかで日本では富士山はどのようにかかわり続けてきたのか、など勉強出来ました。  卒業論文を書くために現場を拝見しました。  その中でペンキ絵を描く職人が居なくなってきていることが判りました。  通ううちに「描き方を教えてもらう事が出来ないでしょうか」、と言う事で弟子入りすることになりました。   最初は断れました。  見習いという事になりました。 師匠からは別に仕事を持つように言われました。  

独立して、結婚をして子育てをしながら、続けています。  お産前後はどうなる事かと思いましたが、復帰することが出来ました。   周りに助けられながら、産後2か月から仕事を頂きました。   ペンキ絵は広告の世界と強く結びついているので、ペンキ絵の下に広告が並べられていました。   映画などその時代に合ったペンキ絵を描きつつ、若い人たちにも興味をもって頂けるように、ペンキ絵が描く続けられたらなあと思っています。 延べ総数で300、400ぐらいは描いていると思います。  個人的には名前は入れないようにしています。   遠洋漁業船の風呂場にも絵を描かせてもらっています。    ホテル、旅館では海外からのお客さんの為にも、富士山の銭湯ペンキ絵と言う形で描かせてもらったりしています。  デイケアーセンター、老人ホームなどでも依頼いただいています。   お薦めの一点は、かわらもん?さんのトウデーシリーズ?の作品で、グレーとか単色の画面の上に白い色で、その日の日付が描かrている作品があります。   見ているとなんでこの日付を描いているのだろうとか、絵なのか、数字なのか、不思議になって来ます。   なんでもない一日を作品にしてゆく事は、ペンキ絵に重なる部分も会うのではないかと思います。  なんでもない一日が後になってみると、意味がある一日だったのではないかと、そんなことを気づかせてくれる作品かなあと思います。