2023年7月12日水曜日

徹心香雲(僧侶 元・演歌歌手 香田晋) ・道に迷うことこそ 道を知ること

徹心香雲(僧侶 元・演歌歌手 香田晋) ・道に迷うことこそ 道を知ること 

今から11年前、演歌界期待の星だった紅白出場歌手が忽然と芸能界から引退して、姿を消したことを覚えていますか。  香田晋さんです。  作曲家船村徹さんの愛弟子で、30万枚のヒット曲を出した人気歌手でした。  何故辞めたかという事ですが、バラエティー番組で「おバカキャラ」を演じさせられたことに疲れて、大好きな歌が歌えなくなったそうです。  芸能界で傷ついて心を癒してくれた妻のおばあさんを介護の末に看取り、供養したいと船村さんの知り合いの僧侶に相談すると、仏門の道に誘われて5年前に得度しました。 僧侶の名前は徹心香雲だそうです。   この名前はどんな漢字でどんな思いが込められているのかはインタビューの中で出てきます。  いまは自分の辛かった経験を思い返して、すこしでも悩み苦しむ人の役に立てばと、法話、得意の書画を生かして感謝して生きる言葉を御朱印帖に記すなど僧侶の仕事に励んでいます。  「何も持たない今が一番幸せ」と語る徹心香雲さんに伺いました。

出生地は東京荒川区でした。  育ちは福岡県北九州市八幡東区で14歳まで居ました。   子供のころは元気が良くて無口の感じでした。  14歳で母と別れて岡山県の母親の兄弟宅へ移ることになりました。  小さいころから両親の喧嘩が頻繁にありました。     小学6年生の時におばあちゃん宅に行ったら、「あんたの本当のお父さんはこの間亡くなっている。」と言われて、吃驚して、今のお父さんは本当のお父さんではないという事が判りました。  そのことは心の中に仕舞って置きました。  中学2年の時に二人の喧嘩に我慢できなくなって、母親とは別れることになりました。  様子は見に来ていたようですが僕は拒否してあっていませんでした。  

親戚の家では気を使うので、塗装業の職人のアルバイトを始めました。(2000円/日)  稼ぐ大変さと稼げばお金も入るんだという実感も沸きました。  母と別れて、大きいものを捨てると大きいものが入ってくるんだなという事が判りました。   クリスマスでおじさんおばさんの前で歌ったら、自分ではうまいと思って歌ったら、音痴だ、へたくそだといわれました。  翌日から歌の勉強に励みました。  カラオケ喫茶で歌うようになりました。  或る人から歌の先生を紹介してもらえることになりました。  レッスン料はいらないから来なさいと言われて、素質があるのかなあと思いました。  歌に力を入れるようになりました。 その三宅先生のお師匠さんがが作曲家の船村徹先生です。  

高校2年の秋ごろに、船村徹先生の公演があるという事で先生と一緒に高松に行きました。 船村徹の演歌巡礼』の公演を聞き感動しました。    カラオケコナーナがその場であり、飛び入りで歌いました。    船村徹先生からは歌のことは一切ありませんで、足が短いとか言われて会場は盛り上がりましたが。  船村徹先生から三宅先生に電話があり、「高校卒業したらうちに来なさい。」といってくれました。

山の中の船村先生のお宅に伺いましたが、敷地は1500坪ありました。  まず草むしりから始まりました。  秋は枯れ葉の掃除、冬は雪かきでした。 歌のレッスンはありませんでした。 独学していました。 或る時急に歌うように言われて歌ったんですが、後で先生からいろいろ言われました。  3年間の修行でしたが、レッスンはほとんどなく。デビュー曲は10分練習しただけでした。  1989年『男同志』(作詞:星野哲郎、作曲:船村徹)で歌手デビューしました。  船村先生から「母親とは会っていないだろうから、報告に会いに行ってこい。」と言われました。  九州の小倉駅で待ち合わせをして、久し振りに会う事になりましが7年間会っていなかったので、他人行儀な感じになってしまいました。 同年、第31回日本レコード大賞新人賞を受賞することになりました。     翌年「一緒に暮らそう。」というようなことを話していましたが、母が「胆石だから入院する。」という事を言われました。  その時母は42歳で、危篤になってしまいました。1994年の紅白出場の年にお墓を建てました。 今でも毎朝手を合わせて、それから一日がスタートします。  「感謝して生きる」という事がテーマです。  

バラエティー番組とかロケに行ったり、僕ではなくてもいいような仕事が入って来て、ストレスを感じてしまいました。  もうやめようと思ってふざけたことを言ったら、それが逆に受けてしまって、自分の目指す歌の方向と違った方向に行ってしまいました。       辞めようと決心しました。  これまでいろいろ苦労、大変なことがありましたが、無駄だったという事は一つもないです。  

九州に戻り、絵に没頭し個展を開きました。   料理もやってみようと思いまして、開業したら流行りました。   妻になる人はそのおばあちゃんが僕のファンで、それがきっかけで付き合うようになって結婚しました。  おばあちゃんが入院したら、料理を作ったり毎日見舞いに行って、洗濯物をしたりいろいろやりました。  脳梗塞に成ったら車椅子生活になり、車椅子を押したり、夜中はトイレに連れて行ったり、付きっ切りでした。   

芸能生活で汚染されたものが取り払われるような感じでした。  僕の歌を聞いてもらって、最後の一呼吸が魂が抜ける様な感じでした。  苦しまず安らかな顔で亡くなりました。  ふっと思ったのが、福井県の徳賞寺住職とは18歳から船村先生からのきっかけの知り合いで、相談したら「出家したらいい。」と言われました。  自分でおばあちゃんを供養したいと思って出家しました。   

徹心香雲という名前にしました、 船村徹先生の「徹」、「心」、香田晋の「香」、師匠が大雲道人という名前で「雲」、で全員の名前が入っています。 だいたいの人が道に迷っているんだと思います。  迷ったらその道は知ることが出来る、迷った道を歩いてみる。  ①失敗して己の目が開眼する。  ②苦難は必ず何かを学べる恵なのです。  ③人生は一生をかけて自分を作る。  ④こんな時はしみじみ思う、幸せは苦しみを知る人。     ⑤人は心構えを変えることによって、人生を変えることができる。  

仏門に入って5年。  一日を過去とか未来とか考えずに、今の積み重ねなので、今のこの瞬間を楽しんだり、頑張って生きてゆくという事だけです。  感謝して今を生きてゆくことを常に考えています。   歌の力も凄いと思うので、歌と話と、その時代背景がピタッとはまれば、お客さんもホッとします。  お客さん、檀家さんとの間を出来るだけ縮めたいです。  いろいろな思い出は定期預金で、それが財産ですね。