大至(元力士・歌手) ・〔にっぽんの音〕
1968年茨城県日立市出身。 15歳で卒業後押尾川部屋に入門、初土俵から10年で新十両に昇進、1994年に新入幕、若貴全盛期に若乃花、貴乃花、曙、武蔵丸など名力士と対戦。 最高位は前頭3枚目。 身長182cm、体重172kg、今は125kgです。
引退を発表して1か月経たないうちに、稽古はしないし食べなくなるしサーっと痩せていきました。 2002年3月場所をもって18年間務めた現役を引退、後進に指導に当たる。 子供のころからの歌えの憧れを諦めきれず、歌手に転身。 現在は相撲甚句を伝える事をはじめ、ライブやミュージカルなどの舞台でも活躍。
相撲甚句は、300年前ぐらいから歌い始めてきました。 芸者衆がお相撲さんが遊びに来る座敷で、面白いものを見せたいという事で相撲の攻めの型(雲竜型)、守りの型(不知火型)の型の真似をしながら、三味線の音色に合わせて歌ったのがきっかけだと言われています。 面白いという事で、土俵の上で歌う事になりました。 昔は5つある一門が地方に方々に動いていました。 少人数だったので、取り組みの合間に余興を取り込んで一つの興業として、成り立たせていたという一つに、相撲甚句がありました。 全国各地に相撲甚句が広がっていきました。 「初切(しょっきり)」と言って、相撲の禁じ手を面白おかしく紹介する見世物があって、取り組みの間に盛り込んでいます。
50年前から呼び出しの「三郎」「永男(のりお)」という人がその土地ならではの歌詞を作って、巡業の中で歌いました。 それが広がって人気になって行きました。 いつの間にか各地に相撲甚句会が出来てきました。 地方巡業はお客さんに相撲を楽しんでいただく、他の部屋の力士と真剣に稽古が出来るので、修行の場所でもあり、地方のお客さなとのふれあいの場所でもあります。 序の口から横綱迄10段階階級がありますが、幕下までが若い衆の仕事でもあります。
*相撲甚句「七福神」 歌:大至
相撲の世界と能楽の世界との共通点はたくさんあります。 土俵に房が垂れているが、東西南北を表している。 能楽では幕と色と同じ。 土俵の大きさも能舞台と変わらず、15尺(4.55m)が俵の円の直径になっています。(外が四角になっている) 能舞台が3間四方で昔は一緒だったと聞いています。
相撲甚句は5つの節しかなくて、ループしていって一曲になる。 一つ覚えてしまうといろいろな歌詞が変わるだけです。 「東京名所」という相撲甚句があり教科書的なものになります。 口伝えになっています。 「芝か上野か浅草か・・・・」 七、五調になっています。
4270gで生まれてきました。 子供のころから力士として育てられました。 母が民謡家系(網元の娘)で、母が相撲甚句を仕入れてきて、僕に歌って聞かせていました。 小さいころから音楽はやりたくて仕方なかった。 父親は相撲取りにさせたくて仕方なかった。 部屋の師匠から後を継いでくれという事もありましたが、歌の道を選びました。
小学校3年生の時からまわしを付けて、小学校卒業する時には100kgありました。 中学の時に全国大会に出てスカウトされました。 中学卒業する数日前に入門しました。 行く前日は布団をかぶって泣きました。 出発の時に100人ぐらい実家のところに来ましたが、そこで父すごい挨拶をしてくれました。 「私は戦争の予科練に行ったけど、息子は命の保証だけはされている。 どれだけ周りが応援してくれても、自分の努力なしには栄光はない。 悔いのない人生を送ってほしい。」 そういう挨拶をしてくれました。 だから逃げて帰るわけにはいかなかった。
最初はお客さん扱いでした。 1週間後は4時半ごろ足で起こされて、まわしを付けて稽古させられました。 同期生が何人かいましたが、夜逃げしてゆくんです。 逃げたい止めたいは毎日思っていました。 星空を見上げると涙しか出てきませんでした。 3年目で3段目に番付けも上がって来て、先輩たちに勝ちだすことができると、違ってきました。 相撲は白黒競う前に、神様に五穀豊穣を祈るという事が大元にあるわけです。 何をしてでも勝てばいいというものではないと僕は思います。 土俵上での所作の一つ一つの美しさ、礼儀正しさというものは求められるべきだと思います。
*「黄昏のビギン」 歌:大至 初めてのリサイタル。 歌で恩返しをしたいと思っています。
日本の音とは、拍子木だと思います。 相撲の拍子木は音が遠くに飛ぶように、丸みを帯びていたりしています。 軽く持って叩く方が音が響きます。