2012年10月4日木曜日

高橋エミ(歌手)         ・映画「キクとイサム」と私の歩んだ道



高橋エミ(歌手)     映画「キクとイサム」と私の歩んだ道
今井正監督の代表作 日本女性とアメリカ兵の間に生まれた、姉と弟が東北の祖母のもとで差別と闘いながら、生きる姿を描いたもの
主役を演じたのが、アフリカ系アメリカ人の父を持つ、高橋エミさんと奥野山譲二さんでした
実際の人生でも祖母に育てられて高橋さんは 東京都北区で育ち、脚本家の水木洋子さん等の後押しもあって高校を卒業 歌手を目指して作曲家の吉田正さん
等の指導を受けて、歌謡曲の歌手として、メジャーデビューをしました  
ヒットには恵まれませんでしたが、各地のキャバレーやライブではトークと歌唱力で
全国に多くのファンを得ました  
今井監督の生誕100年に当る今年は「菊と勇」の再上映 高橋さんの歌のライブ さらにいじめに対し講演依頼が来ています
差別やいじめの中で育ち、歌手として歌い続けてきた65年の人生を語って貰います

北区上十条で祖母の元で育つ  私が生れた事を父は知らずにアメリカに帰ってしまった
(お腹が大きい時)  母は立川で父と知り合った     のは演芸場 旅芝居の一座の公演  歌謡ショー等もやっていた 双葉百合子が来たりしてきた  毎日行っていた  
祖父は鉄道員だったが殉職してしまった  
官舎に住むことが出来なくなり、都営住宅を申し込んで上十条に住むようになった
30歳を過ぎてから 会ったときにちらちらと経緯は聞いた  
知り合いと親に内緒で学校出てから立川で知り合ったらしい
父は身体が悪くて強制送還されたらしい  母は家にも帰ってこない 
(親に内緒だったから) お婆さんは慌てて病院にきた
未熟児で有ったので、育たないかも知れないと医者に言われたが、祖母の乳に甘いものを付けて食らいついたら、生きられるのではないかと想い


連れて帰るといって、先生の前で試したら食らいついたので、あっこの子は生きられると思い連れて帰ることにした  祖母のもとでそれ以後暮らしてきた  
その間親は退院してどうなったかは判らない  
物ごころつく頃までずーっとお婆さんに育てて貰った 
隣のお宅がサンマを飼ってくると  おすそ分けをしたりしていた時代だった
小学校3,4年には大きくなって行って、きかない子供だった  幼稚園の頃は身近な子がいた
近所の子とは一緒に遊んだりとあるけれども、小学校に通う頃には知らない子と接触するようになる 子供が見る目は なんでそんなに黒いのとか言われる
何故黒いのかとか先ず言葉の暴力から始まり、今度は実際に暴力を振るわれるようになったが、その頃は身体の大きくやり返したりした
しかし、兄弟がいたりして、上の兄が友達を連れてきて、喧嘩になる 
やられたりするが、私も執念深く、相手の親のところに行って親のいる前でやり返したりした  
やられると先生に言いつける子がいて、先生も解ってくれない
小学校6年の時に「キクとイサム」の出演依頼が来た
(候補は何人かいたが監督らが望んでいたのは大人しい華奢な子だった) 
水木さん(脚本家)は逞しい子を望んでいた 
 
今井監督との間では、私の事は言うなと言われていたらしい 
どうしても居ないと言うなら映画の話は没にしましょうと言う事になった
水木先生は納得しなくて 市川基一さんを思いっきり酔わせて、隠していることは無いと言ったら、 実はこういう子がいてどうにもしょうがないんだと
今井監督に言ったらどうもこれは駄目だと 言われたと  映画の頃は別にして会いたいと言った その時は1年近くたっていたと思う
水木先生に会ったときに、優しそうなおばさんに感じた  人みしりしないで育ったので気さくに話すことができて、波長が有った様で 其の時にこの子だと思ったみたいだった
監督は気に要らなかったが、カメラテストで決めようという事になり、5~6名の子をテストしたら、私に決まった(存在感が有ったみたい) 

タップダンスだったり日本舞踊だったり習ってはいたのでそれも披露  東北弁はできる ?といわれたが、お爺さんは岩手県だったので 東北弁は違和感が無かった
映画の設定の地方が福島県  なので調度良かった  お姉さんが 私の役 弟が奥野山譲二さん     映画の中でいじめに対しても嫌だなと思った   
(現実に学校に行ってやっていたので)  演技をやらされるのが嫌だった  
無理だとやる気が無いので、監督は匙をなげたが、水木先生が私達が止まっている宿にくる  貴方達が本当に嫌なことだったら私は強要しないと
涙を流しながら話してくれた あー凄く本気だと感じた 
私はねー譲二君 私達遊んでばっかり居たんじゃうまくないと言った 
ここらで本気にならない と言った

それに対して、譲二君も心に共感することが有って、それから何かが変わって、撮影をやっていることに ふっきれた様に思った(自分達も本気でやらなければいけないと)
その映画は昭和34年にいろんな賞を総なめにした 
 こういう時にはこういう風にするんだよと今井先生は説明してくれた  
譲二君との列車での別れのシーンで 余り旨く表現できずにいたら 今井先生がエミちゃんが一番悲しいことはなに と言われたら お婆さんがもし死んじゃったりとか
別れてしまったら悲しいと今井先生に言った  
その話の通り エミちゃながその通りの感情でイサムとの別れを想ってくれればいいんだよと言ってくれた
心というものを引きだしてくれた  丁寧な演技指導だった
映画を経験した後で、何かが自分の中でグーッと大人になった様な気がした 
映画撮影後学校に帰るが 今まで自分が喧嘩したり 皆の視線が違って感じた
撮影は半年間だったけれども、学校に帰った感じが大きく変わったと感じた 
何だから嫌だと言う感覚が無くなった 
その後も水木先生からは親子のようにいろいろと楽器を買ってくれたり、面倒を見てくれた  
映画を撮り終えた後、水木先生は心配だったと思う そのまま手放すと又違う 
本人たちも野放しに成って、どうなるか判らないので
その後も面倒を見なくてはいけないのではないだろうかと、考えたのではないかと今は思っている  
学校出たらどうするのかとか聞かれた

私は歌が好きで歌いたいとの思いが有ったので、役者へとの道も聞かれたが、
役者への道は断った  (伴淳三郎さんがきて役者を一緒にやらないかと言われた) 
結婚に対しては? 
結婚は自分達だけのものではない 
相手も家庭が有るので無理だと思ったと譲二君は言っていた 
私は結婚はどうとかというのは 水木先生も言うんだけど 歌を辞めて 普通に主婦に成りたかったら 歌を歌うとか芸事をしちゃ駄目と、水木先生はぴしゃっと言われた
どっちを選ぶか 自分の心に正直になりなさい という  
自分が結婚して家庭に入りたいと思ったら言いなさいと その代わりそう思ったら、
歌を歌うとか、役者になるとか
芸事には一切関係なくしなさい と 矢張り家庭をしっかり持ってやっていきなさいと 言われた
私は結婚とかあまり考えないので、高校の頃 自分の子供がまた大変な想いをすると云う事を考えた時期がある  私は乗り越えてきたけれど 大変だなと思った
自分と同じ思いはさせたくないし、自分は一世一代このままでいいと思った  コツコツ歌の勉強したいと思った