亀井茂(元・テレビカメラマン) ・テレビ放送の夜明け前(大阪編)
昭和28年2月1日はNHKが日本で最初のテレビの本放送を開始した日です。 NHK東京テレビジョンでしたが、全国ネットワーク化を進めるため、大阪と名古屋でも並行して実験放送が行われています。 当時大阪放送局にあったテレビジョン実験局でカメラマンとして勤務してい亀井茂さんにお話を伺います。 強い照明の中、ズームレンズのなかった初期型のテレビカメラがドリンと呼ばれる台に乗せられて、出演者に近づいたり離れたりする、今とは違うスタジオの風景、その中で繰り広げられた実験放送の様子、当時20代だった亀井さんの思い出を辿ります。
大正時代から浜松工業高等学校や早稲田大学でテレビジョンの研究が行われました。 日本放送協会が中心となって、実用化のための開発がされるようになります。 昭和14年(1939年)東京で実験放送が行われるようになりました。 中止になった東京オリンピックを中継するんだということを目標に準備をしてきました。 その前のベルリンオリンピックで ドイツがテレビ中継をやったという事に刺激を受けて、東京でもという事だった。 太平洋戦争、第二次世界大戦の敗戦と共に研究が中止になる。 GHQにより戦時中に軍事転用された科学技術の研究をすべて禁止した。 この時にテレビジョンに関する研究がすべて禁止された。 昭和21年GHQによる禁止措置が解除される。 東京NHK技術研究所を皮切りにテレビジョンの研究が本格的に再開される。 大阪で昭和26年6月25日、NHK大阪テレビ実験局で出力30wという出力で放送を開始した。
私がNHKに入ったのは昭和27年の4月からです。 昭和27年2月26日にNHK大阪が定期実験放送を始める。 テレビのことは全く知らないで、テレビ技術班(課にはなっていない。)があり、スタジオで四角い箱があり、それがテレビという事で面白そうなのでやりたいといったのがきっかけです。 三脚の上に四角い鉄の箱が乗っていて、210mmのレンズが一本ありました。 照明は5kwのライトです。(探照灯) それを30坪ぐらいのところに3台持ち込んで 、500w~1kwぐらいの電球がやたらにくっういたものを天井から照らしていました。 スタジオの中は常に40℃ありました。 熱に泣かされました。
当時の出し物はバレエ、日本舞踊、料理、歌もの、漫才、宝塚歌劇団とかでした。 宝塚歌劇団がハワイアンを膝まづいて踊った時に膝を火傷してしまったという事で、大変だったようです。 昭和27年の頃の実験放送は1本の番組は15分ぐらいでした。 28年ぐらいから中身のあるドラマ、ミュージカルを作り出しました。 早く終わったりするときのために金魚鉢に高級な金魚をいれて、それを撮るようにしましたが、金魚がぷかぷか浮いてきて熱のために死んでしまうので、レコードをかけて花瓶のお花を撮っていました。 料理番組では先生の白衣は反射が強すぎて、薄いブルーに染めてもらったり、ご飯もブルーの色をかけます。 見ていて食べる気がしないんです。 漫才は動きがあって面白かったですが、落語は難しかったですね。 ズームがなかったのでカメラが寄って行ったり離れて行ったりしました。 太いケーブルが点いているので難しかったです。
東京では昭和28年2月1日から本放送が始まります。 当時はマイクロウエーブという放送局同士をつなぐ電波があり、東京から、名古屋、大阪への下り回線だけでした。 登り回線が出来たのは昭和28年8月13日の第35回夏の高校野球の大会でした。 新しいテレビカメラでレンズが4本ついていました。 照明の感度も全然違っていました。 ボールを追ってゆくのにコツがいりました。 (ライト側のフライなどは難しかった。) 野球中継は3,4台のカメラでやっていました。 カメラは熱に弱かったので、扇風機を使ったり冷却に大変でした。
4元放送をやったことがあります。 東京がスタジオと月島桟橋、大阪がスタジオと道頓堀太左衛門橋、「追跡」という4元ドラマでした。 これがテレビの最初の芸術祭賞をとっています。 1954年3月1日NHK大阪放送局がテレビジョンの本放送を始める。 昭和28年2月1日で東京で放送を始めた時には、大阪管内ではテレビの台数が466台、一般家庭が60台、喫茶店など営業用が31台、この時の大阪のラジオは170万台。 和田勉とは同期でした。
25,6歳のころ民間に移りましたが、重宝されて年寄りの人を教えたりしました。 カラーになって一番苦労したのは、ジュースならジュースの色が本当に出ているのかなあと言う事でした。 紫が一番撮れなかった。