岩村明憲(福島レッドホープス監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 何苦楚魂のチームづくり
1979年(昭和54年)生まれ、44歳。 宇和島県立東高校からプロ野球に進み、東京ヤクルトスワローズ、東北楽天ゴールデンイーグルスで内野手として活躍しました。 2007年から4年間はアメリカの大リーグでもプレイをしてタンパベイ・デビルレイズ時代の2008年には内野のリーダーとしてチームを引っ張り、ワールドシリーズに進出しました。 帰国後はNPB日本のプロ野球を経て、独立リーグでプレーをして、現在はルートインチャレンジリーグBCリーグ福島レッドホープスの社長兼監督をしています。
3月9日にキャンプインをして4月8日(土)にルートイン全体の開幕戦をして9日にホームでの開幕戦をします。 ヤクルト時代の「なにくそ魂」 なにごとも苦しい、「なにく」 「そ」は基礎の石篇をとった「楚」の「なにくそ魂」、これは中西太さんから頂いた言葉です。 ヘルメットの内側に書いていただきました。 三原監督から頂いた言葉だそうです。 苦しんだことが礎となって、後に大きな花が咲くよという気持ちでやれば、苦しい時も乗り越えられるという意味と、なにくそと歯を食いしばって、反骨心ようなことも含まれています。 何歳になっても野球から教えてもらったことを伝えていきたいと思っています。 20歳ごろの時に中西さんは66歳で、打てなくなった時に声を聞いたり姿を見てなんかホッとした思いがあります。
高校時代はキャッチャーをやっていましたが内野手の経験もあったので、ヤクルトに入った時にはどこのポジションがいいですかと質問をしたぐらいでした。 二軍の大橋コーチから「お前、サードに行け」と言われて、サードを守るんだという気持ちになりました。 池山さんがショートからサードにコンバートされている時であったので、自分はこの大スターを抜かないと試合に出られないのかなあと思うと、ちょっと壁が高すぎるかなあと感じました。(18歳の時)
メジャーに行くまでの9年間は、3年連続打率が3割越が4回、最多44本のホームラン、3年連続30本以上のホームラン、ゴールデングラブ賞サード6回(掛布選手と並ぶ最多記録)。 キャッチャーをやっていたので最初は守備が下手でした。 守備の練習は大橋さんと凄く取り組みました。
高校の時に全日本代表でフィリピンのマニラでホームランを打って、球場に名前を書いてもらいました。 偶然にベーブルースの真下に書いてもらいました。 それでメジャーのことがちょっとずつ頭にありました。 2002年、2004年の日米野球があり、アメリカのロベルト・アロマー選手からバネもあるからメジャーでも大丈夫じゃないかと言われて、具体的に思うようになりました。 3年様子を見てからと言う事になりモチベーションアップになりました。 英語の勉強もアメリカから来ていたピッチャーから教えてもらいました。
アメリカに渡って1年目が終わるころにポジションがサードから違う場所に替わるように言われました。 ほぼぶっつけ本番でセカンドを守ることになりました。(最終戦) 2008年にはリーグ優勝してワールドシリーズに行くことになる。 20007年は中途最下位でチーム改革が始まって、そこに携われたことも大きな経験でした。 4年間プレイ。 2010年11月に日本に帰ってきました。 東北楽天ゴールデンイーグルスと契約をして、翌年3月11日大震災がある。 兵庫県の明石でロッテとオープン戦をやっている最中でした。 球団側と話し合いをして、今帰ってもなにもできない、迷惑をかけることもあるかもしれないので、もう少し待ってくれというのが球団側の見解でした。 帰れたのが1か月後でした。 4月10日に大きな余震が来ました。 避難所、体育観などをめぐって、声掛け、サインを書いたり、子供たちとボールを使って遊んだり、活動をしました。
3月11日の大震災がなかったら福島レッドホープスの社長兼監督は引き受けていなかったと思います。 福島に方は原発事故で故郷に帰ってこられない状況になり、野球でなんとか笑顔と希望、夢を与えられるといったことを目標に置きながらのチーム結成でした。 9年目になりますが、最初は環境が全然違って、プライドが邪魔していたなあと思います。 我々はサーカス団であるべきだと思っています。 2018年に経営が厳しい状況になりました。 5月ごろには社長にお伺いを立てて動かしていましたが、怪しいという話を聞いた時には、副社長が消え、社長が消えてしまいました。 とりあえず止めることなく2018年はやりました。 想像を絶する数字でありました。 新しい会社にして名前も福島ホープスから福島レッドホープスに変えてスタートしました。
野球、スポーツの力を使ってどこまで復興に携わることができるか、という部分が凄くあったし、せっかくできたチームなので簡単に潰したくないという思いもあります。 点々と約15か所の球場を使いますが、原発近くの浜通りにも行きますが、浜通りには約10mの防波堤がり、果たしてこれが復興なのかを思うわけです。 地元に帰ってこれるような準備をさせてあげたいなという思いもあり、ここに帰ったらこういう娯楽があるんだという、野球がその一つを担う事が出来ればいいなあと思います。 関東界隈には8つの県にそれぞれチームがありますが、東北では福島に唯一の球団です。