伊東四朗(喜劇役者) ・私は喜劇役者!
1937年(昭和12年)東京都生まれ。 高校卒業後石井均一座に入団、その後南伸介、戸塚睦夫と「てんぷくトイリオ」を結成しお茶の間の人気者となります。 1969年大河ドラマ「天と地と」に出演、数々の映画、ドラマに出演しました。 1983年連続テレビ小説「おしん」ではヒロインおしんの父親役を演じ、その厳しい演技が話題となりました。 又民放のバラエティー番組でも数々のキャラクターを演じ人気者となりました。 シリアスなドラマから喜劇、バラエティーまで幅広く活躍する伊東四朗さんのお話を伺います。
阿吽の呼吸というか、お客さんとのやり取りは大事だなあと思っています。 お客さんの世代も幅があるので,どこにターゲットを合わせたらいいかなあと言う時に、楽屋にはスピーカーがあってお客さんの声がざわざわ入って来ます。 その声を聞いて今日はこの辺だなという事を自分で見定めています。
台東区の生まれ。 浅草へは歩いて行けるところです。 物心ついてみたのはエノケンさんの孫悟空でした。(5,6歳) 父親に連れて行ってもらって歌舞伎も良く見に行きました。 15代目の市村羽左衛門を観ているというのが自慢です。 サラリーマンになるつもりでいましたが、芝居だけは見にいっていましたが、楽屋の窓から石井均さんから「おい青年 寄ってけ」と声をかけてくれて、それがきっかけとなりました。 石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加するようになりました。
どうしてそうなってしまったのか、その心境の変化が未だに判りません。 バイト先で正社員にならないかという話があった時でした。(21歳) いろいろあって3年ぐらいで解散になりました。 石井一座にいた戸塚睦夫も新宿フランス座々付でその剣劇や軽演劇仲間だった三波伸介とは夜間キャバレーの営業に出ていた。 二人の都合がつかない時には三波の替わりに出たりしていました。 そのうちに三波が本当にいなくなってしまって、私が「三波」になってやっていました。 三波は大阪でやっていたが、うまくいかなくなって解散して戻って来ました。 便宜的に始めたのがトリオです。(てんぷくトリオ)
そのうちテレビが笑いの番組をいっぱい作るようになり、そのお陰で何とか波に乗ることが出来ました。 井上ひさしさんに出会って、コントを書いてもらいました。 それがなかったら僕らは長くは続いていなかったですね。 難しいコントで、緻密で生放送という事で、死ぬような思いでした。 NHKの『お笑いオンステージ』もありました。 1973年に戸塚睦夫が42歳でなくなり、1982年12月8日、三波が52歳で急死してしまい、物凄く喪失感に襲われました。 どうしたらいいかという時に「天と地と」という大河ドラマに呼ばれたり、民放からも声が掛かる様になりました。
「電線音頭」でのベンジャミン伊東をやっていて、1983年、『おしん』では父親役に抜擢されることになりますが、あのお父さんの役はデメリットがあるんじゃないかと思いました。 『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』に三枝さんが来ていて、「電線に・・・・」なんて言って踊ったことがあるんです。 一回だけのアドリブだったが、あれをプロデューサーが伊東さんで独立させたいという事になり、考えた時に「サーカスの団長」が思い浮かんだことが発端となってあんな衣装スタイルになりました。 振り付けも自分で考えてやることになりました。 小松政夫は「しらけ鳥」を歌っていました。 他にもいろいろネタを外から仕入れていました。
喜劇というのは、口幅ったいようですが一番上にあると思っているんです。 喜劇が出来ればほかのものは何でもできるといいたいです。 それほどやってみると喜劇は凄いんです。 お客さんが違うだけで、毎日違う舞台をやっているような気がします。 笑いにもいろいろあり、後でいろいろ考えて、毎回喜劇は答えが変わってきています。 喜劇は失敗もあればいいこともあります。 公演中はゆっくりするという事はなく、尻を叩かれている様な気がします。 喜劇は本が一番大事です。
間とかはお客さんから教えてもらうものですね。 台詞をお客さんが理解して次の言葉に入ってゆく、そこにずれがあったりする、どんどんずれてゆくと喜劇の意場合は怖いですよ。 ずんずん深みにはまってゆく。 必然的に無理なく笑ってくれる喜劇をやってゆくとストレスは弾けてゆきます。 全部正解という事はやったことはないけれども、一度やってみたい。 舞台だけで終わるのかなあと思っていましたが、テレビでも随分お世話になりました。 テレビを見ている皆さんの見方が変わって来たので、今喜劇をテレビでやってもなかなか見てもらえないと思います。