キダ・タロー(作曲家) ・浪速のモーツァルト 後編 90歳過ぎてますます元気
キダさんは独特のヘアースタイルで、学校時代音楽室に飾っていたバッハやモーツアルトの髪形に似ています。 白髪混じりのオールバック、襟足は高めです。 浪波のモーツアルトというニックネームがしっくりくるのもこの風貌からくるのかも知れません。 キダさんは昭和5年12月生まれ、92歳。 兵庫県宝塚市に生まれ、ずーっと関西で活動してきました。 キャバレーやダンスホールのピアニストとして活躍、作曲、編曲の活動に軸足を移して昭和20年代の後半からはCMソングや関西発のテレビ番組のテーマ曲を次々に手掛けて行きます。 締め切りに追われながらも作曲をこなしていったキダ・タローさん、92歳がその作曲家人生を振り返ります。
ピアノを弾くという事と作曲をするという事は別の脳の場所だと思っています。 ピアノを10代からやっていますが、才能がなかったという事が判るのに70年かかりました。 基本的に手が小さい、指が短い。 オクターブ3つ幅が要るんです。 13度届かないと演奏出来ない曲がある。 三木鶏朗さんという天才が東芝とかどんどん曲を作っていました。 「CMソングを作ってみませんか。」と言われて作曲の道に入りました。 CMコンクールがあり、東京では複数の作曲家、大阪ではほかにいないので私が担当し、コンクールの優勝が毎月あり、ほとんど私が取りました。 それが病みつきの一つの原因ですね。 東京へも録音に行ったりして、一流の歌手とも知り合いになり、交友関係は広がりました。 拠点を東京に移すという気にはならなかった。
1926年民放ラジオがどんどん開局し始め、テレビが盛んになるのが昭和30年代。 当時、一睡もしないでCMを一日7曲書いたこともあります。 締め切りの前日までは、詩は頭の中にあるが、見ないようにしていました。 詩には必ずへそがあるので、へそが出来たらいいんです。 へそは感性の問題です。
昭和27年から20年間続いた番組、ホームソングの番組があり自分でも何曲か出しましたが、お母さんの歌で私が作ったことを知らないプロデューサーから「あれは駄目。」と言われて、いい勉強になりました。 自分を見つめ直すということは難しいものです。 昭和39年に初めてレコードとして出る。 北原謙二さんの「ふるさのはなしをしよう」詩が書けと言っているような感じのもので作りやすい曲でした。 10分か15分で出来ました。 曲が半音低いという事で、当時はそれを行う事は大変でした、そういった思い出があります。
今までに1000や2000は軽く書いていると思います。 団体や会社の曲、プロポーズ大作戦、ワイドショーなどの番組のテーマ曲、人をテーマにした番組挿入曲、放送局の歌、地域の歌、学校の校歌,CMソングなどなど。
NHKの『平成古寺巡礼』古いお寺に雪が降っているような感じをイメージして演奏だけで、それらしい雰囲気で作りました。 「生活笑百科」で歌を入れるかどうか、いろいろやり取りのなかで作り上げました。
「浪花のモーツァルト」の異名を持つ。 モーツァルトみたいに整然とした感じは好きじゃないです。 奔放な音楽の方が好きです。 一番信奉しているのがショパンです。 感性溢れる曲が好きです。 ガラ系時代からゲームが好きでやっていましたが、スマホになって内容が派手になって面白くなりましたが、感動がないので辞めました。