植田まさし(漫画家) ・ほのぼのが人気の秘密
現在4コマ漫画を中心に活躍している植田さん、1982年の4月から新聞の連載が始まった「コボちゃん」は今年の4月で1万5000回を越えました。 ほのぼのとした漫画で人気がある「コボちゃん」、ちょっとしたいたずら書きで始まった漫画家人生ですが、もう55年も続いています。
2年ぐらい前に病気をしまして、その時までは夜の3時半に寝て10時半に起きて始めるという一日でした。 病気後は7時に起きて12時に寝るという事にしています。 読売新聞での「コボちゃん」の連載がことしの4月で1万5000回を越えました。 43年ぐらいですがあっという間でした。 その日その日を書いているうちのそうなっちゃったと言う感じです。 ネタは何かの目次とか、辞書、カタログ、新聞と言ったものから取っていました。 観てその場で選ぶと言う感じです。 雑誌だと4ページ貰って7本考えないといけないので、一日8時間ぐらい考えないと出ないです。 連載は40年間変わっていないのですが、枚数が減って、新聞と雑誌が3つです。 1年で600本ぐらいは考えないといけない。 ネタ帳に絵を描いてみる。 描いているうちにハッと見つかるんです。(見つからない時の方が多いが。) まずは面白い事の落ちを考える。 前の3つを話にする。
突飛なことはコボちゃんの場合に合わない。 私は新聞を取っていた時に「サザエさん」が連載されていて、夕刊が「クリちゃん」でその後にサトウサンペイさんの「フジ三太郎」で、漫画と言うとそれしか見ていないです。 一般家庭のリアルな感じの漫画でした。 コボちゃんは私が子供の頃呼ばれていた名前です。
1947年生まれの78歳です。 3人兄弟の末っ子です。 母が絵が好きで、祖母も美術学校に行っていたらしいです。 親戚でも絵を描く人は多いです。 自分でも絵を描いていましたが、絵で行こうなどとは全然考えていませんでした。 近くに貸本屋があり小学校低学年のころよく読みました。 中学では野球、高校ではラグビーをやりました。 大学ではカメラマンになろうと思って、2年の時から夜間の写真学校に行きました。 大学紛争の時で4年間のうちの1年ぐらいしか大学にはいかなかったです。 新宿騒乱事件を撮りました。 渋谷音楽堂で決起集会をやっていて、そこに赤軍派と京浜安保系などがなだれ込んできて、全学連が排除されてしまいました。 それをみて学生運動はおしまいだと思いました。その日から学生運動を追いかけることを辞めました。 写真への興味もうすれてしまいました。
炬燵に母と兄と私がいた時に、私が広告に漫画みたいな絵を描いて、それを兄が見て面白いじゃないかという事で、母も同様で、ちゃんと描いて出版社にでも持って行ったら、と言われました。 8本ぐらい描いて持っていったら、面白いから預かりますと言われました。 しばらくししてから又描いて持っていきました。 半年間ぐらいしたら初めて注文が来ました。4コマ漫画では食っていけないので、数ページのものを描いて欲しいと言われました。 自分ではやったことがないので、作っても面白くなかった。 4ページを全部4コマで埋めちゃえと思って、7本持っていったらこれで行こうよ、という事になりました。 あっという間に連載が始まりました。良い漫画家だと思うのは、長谷川町子さん(サザエさん)、根本進さん(クリちゃん)、サトウサンペイさん(フジ三太郎)、秋竜山さん(面白いと思って始めてみた漫画家)です。
「ああ ちょんぼ」デビュー作 23歳(1970年) 月刊誌の連載を引き受けることになったが、4ページを描いてゆくのに、本当に1か月かかりました。 それが3,4か月続いた時にもう一本持ってくれませんかと言われました。 無理だと思ったが、月に2本になりました。 何とかこなしながらやっていたら、数か月して隔週誌をやらないかと言われました。 どんどん倍になって行きました。 次に週刊誌をやらないかと言われました。 他の週刊誌からも声がかかってきてしまって、どんどん増えていきました。
普通の家庭、普通の人間のやる面白さ。 新聞は多くの人が読むので、いろんな人に判ってってもらえるようなものを心掛けています。 朝刊なので読んだ人が厭な気持になって出かけないような、そんな感じは最初から思っています。 1枚漫画は描いてみたいが、普通の生活の中の1コマ漫画を描くというのはあると思うが、発表の場がない。