内田春菊(漫画家) ・【私の人生手帖(てちょう)】
長崎市に生まれた内田さんは小学生の頃から漫画化を志し、16歳の時に家出、東京で生活し24歳で漫画家としてデビューしました。 「南くんの恋人」など人気漫画家として知られるなか、1993年には養父からの性的虐待などの体験をもとにした、「ファザーファッカー」がベストセラーになりました。 小説家、女優、歌手、落語立川流の一門など多彩な活動を続けてきました。 5年前には大腸がんの手術とともに、腫瘍が肛門の近くにあったので、ストーマと言われる人工肛門を作る手術を受け、パウチと言われる袋を装着して、排せつ物を受け止めています。 今日は漫画や小説で包み隠さず語ってきたこれまでの半生、がん体験や、ストーマ生活などについてもうかがいます。
帯の下にパウチがあり、場所は邪魔にならないというところにという事で着物で大丈夫です。 でかける時の服から判るという事はまずないです。 ちいさいのはCDぐらいのミニパウチがあり、私が使っているのはクローズドと言います。 ドレナブルというのはトイレで中身を出したりすることが出来ます。 クローズドは溜まって来たらポイっと捨ててしまうタイプです。 手術をしてから5年になります。 検査でPETと内視鏡が残っています。 内視鏡は人工肛門から入れるので、超きわどいプレイです。 麻酔はしない方向の病院になっています。 がんがあるところの腸を全部取って、肛門は閉じてしまい、お腹に穴をあけて、腸の端をだして、ひっくり返して縫い付けてあります。 長い付き合いなので不気味だと思わないで可愛いという風に思っています。
夏ごろから「ストーマと猫とがん検診」を連載しようと思っています。 最初は育児出産漫画が面白かったので、書く人が多かった。 本人が思ったことを書いたほうが多少面白いと思います。 人工肛門について漫画を描くという事は最初躊躇しましたが、書いてしまいました。 書くことについては主治医から言われました。 情報には苦労しました。 男性は受け入れにくい傾向があり、プライドが傷つくというような事があるようです。
書かないと自分も救われないというか、書くことでどうにかしてきた。 24歳の終わりごろ漫画で身を立てていこうと思いました。 子どもの時からずーっと漫画家になりたかったが、親からとんでもない反対をされました。 一つのことに絞らないから一流にはなれないとさんざ言われました。 「ケラサイ」とか言われました。 おけらは飛ぶことも出来て、土も掘れて、泳げるがどれも上手ではない。 頼まれれば何でもやります。 落語の「たらちね」も古くなってしまった言葉も判るように構成して、判る古典落語をしました。 大事なことは女性が働くという事は考えているかもしれません。
子供は一番上が28歳、19歳とが男子で女の子が2人です。 手術の時には当時19歳だった娘が付き添ってくれました。 子どもたちには助けられましたが、いい人徳者だと思っています。 子どもたちとはなんでも話せるようになりました。
家族という言葉は今は使っていて好きです。 自分が育ったところは家族が機能していなかったと思うので、家族とは言いたくなかった。 手術をして人工肛門を付けてその後、男の人を好きになるのも、付き合うのも辞めてしまって、非常に楽です。 お酒は失敗することがおおいので、いつの間にかに飲み過ぎるとお腹を壊して失敗することがあるので、男の人と付き合うのも辞めて楽ですね。 手術をしてストーマ生活をするようになって、お酒を飲まない事と恋愛しなくなった、それが一番変わったことです。
仕事はフルデジタルでやっていて、一人のほうが早いです。
やっとけばよかったみたいなことが少ないので満足して暮らしています。 邪魔するものが多かったので、大変は大変でした。 漫画家になると言ったとたん、親から締め付けがあり、読むのも書くのも駄目で隠れてやっていました。 あなたが変な子だから私は肩身が狭いと母から言われていました。 東京に出てきて、ホステス、ウエートレス、印刷会社、などで仕事をしていました。 死んでしまいたいという事がたまにありました。 たまに思うのは、自分がませていたことに自分は救われたなあと思う事があります。 16歳で家出したという事もびっくりされるし、27歳で虐待していた親と縁を切ったとかというのも、ませていたことで救われたのではないかと思います。 それで大変なこともしていますが。
物語を作って行くのに、どこかで見かけた人とか、あったこととかを覚えておいて、それを組み立てる方が私は好きです。 保坂 和志さんが「小説とは人間性の肯定である」とおしゃっていますが、私もそうありたいと思います。 作品が実写版にはなりますが、アニメーションにはならないので、アニメーションを作ることには憧れています。 動画編集もやりたいです。