梯久美子(ノンフィクション作家) ・「ノンフィクション」を書く喜び
1961年熊本県熊本市生まれ、59歳。 5歳から北海道札幌で育ちました。 北海道大学卒後編集者やフリーライターを経て、2006年に「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。 2017年『狂うひと 『死の棘』の妻・島尾ミホ』で第68回読売文学賞と講談社ノンフィクション賞を受賞。 去年の梯さんの作品『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』は北緯50度線をまたぐ鉄道紀行で新境地を開きました。
大学を出て就職のために東京へ出て35年ぐらい東京で暮らして、一昨年秋に札幌に戻りました。 44歳になる年にノンフィクション作家になりました。 その前は友達と編集プロダクションをやっていて、その後独立してフリーライターになって、雑誌でルポを書いていました。 或る時に丸山 健二さんの取材をして、丸山さんの庭つくりの取材をしました。 丸山さんから自分で本を書いたらどうかと栗林忠道ことについて勧めがあって、「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」を書くことになりました。 翌年に「硫黄島からの手紙」で渡辺謙さんが栗林忠道役をやることになりました。 渡辺さんが本を読んでくれて、会って役作りのアドバイスをするという事もありました。
栗林忠道さんのお嬢さんが健在で話を聞くことが出来ました。 たか子さんに沢山手紙を出していて、感動的な手紙です。 本が出たころには亡くなられました。 丸山さんから薦められて、日本の軍人には珍しく栗林忠道は合理的で家族思いの人だったという事で、梯さん書いてみたらどうかと言われました。 いろんな偶然があり沢山の資料に出会うことが出来て、手紙もたくさん保管されていて、この人のことを書いてみようと思いました。 2万人もの部下がいた人なので紙の節約など必要ないが、手紙に2行のところに3行細かい字で書いてあり、裏にもびっしり書かれていました。 硫黄島に行って最初に奥様に出した手紙が遺書のような内容で、子供達を宜しくとか、今まで世話になったとかが書いてあり、追伸があり、お勝手の床下から吹き上げる風の始末をしてこなかったのが心残りである、という事が書いてあり、帝国陸軍軍人とはかけ離れたものを感じました。 もっと知りたいと思いました。
大本営に辞世の句を送ったが「国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」を「・・・・・散るぞ口惜し」にされてしまって新聞発表されてしまった。 「・・・散るぞ悲しき」では女々しいと思われてしまうと感じたようで。 電報の現物はご遺族の家にありました。 赤線で消してあって横に「口惜し」と書かれていて動かぬ証拠です。 本のタイトルには訂正文の思いで「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」としました。間違いは訂正すべきだと思いました。
ノンフィクションは書く作業よりも、他人に会って話を聞いて資料を探して読む、という方が大事というか、私にとっては凄く面白くて楽しい作業です。 書く方は凄く大変です。 いい話を聞くほど書くのが辛いです、難しいので。
栗林中将に出会って、それを書いてしまったので、硫黄島にいった人にも出会って新しい事実も知ることになり、それも書くべきだという事がどんどん出てきて、或る時に三木睦子さん(三木武夫の妻)のお兄さんが戦死されていることを知りました。 お兄さんは部下に対して「捕虜になれ」と言って、自分は亡くなって、部下は投降して助かったという話がありました。 しかし証拠はなかった。 三木睦子さんからはそれは事実だとおっしゃいました。 若い人はその他大勢という意味合いで書いてしまったとの思いもあり、『昭和二十年夏、僕は兵士だった』という当時若い兵隊さんの本を書きました。 書けば書くほど次に調べなければいけないことがでてきて、戦争物を書いてきました。
『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。 『狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ』は第68回読売文学賞と第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞受賞。 島尾 敏雄さん自体が特攻隊長、テーマとしては戦争もあり、文学者の壮絶な夫婦の話、舞台が奄美。 島尾ミホさんは作家でその本を読んで惹かれて、島尾敏雄さんは奄美に派遣されてわずか1年ちょっとで特攻隊長になり、ミホさんとの恋愛、特攻の出撃が延び延びになって8月15日を迎える。 結婚生活にも戦争の影が残る。
物を書いて生きて行くという事がどういうことなのか、という疑問が段々湧いてきて、ノンフィクションとフィクションとはどうなんだろうとか、書くことの罪みたいなことを考えさせられました。 奄美に通うようになって15,6回行って奄美が好きになりました。 土地が教えてくれるようなものを感じました。
鉄道ファンです。 5歳の時に熊本から北海道まで鉄道で行って楽しかった記憶があり、取材でも全国を回って、鉄道に乗っているとリラックスします。 『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』 北緯50度線 宮沢賢治も行っていて、彼との共通点は鉄道好きという事で、宮沢賢治が乗った鉄道に乗りたいという思いもありました。 北海道から近いところを知らなくて、足元の歴史も勉強したいと思いました。 色々書きたいテーマも見つかりました。
宮沢賢治が鉄道で日本で一番北の駅に行きたかったと思ったということが判り、当時樺太の栄浜駅が日本の鉄道の一番北の駅で、賢治はそこまで行って、私も行ってみました。 彼が書いた文章と現実目の前にあるサハリンの風土を合わせてみることによって、賢治に近づけたのかなあと思いました。 北海道にも賢治は2回来ています。 廃線が好きで、地理と歴史が交差している。 文学者の思い出も詰まっている、楽しさがあります。 ノンフィクションを書く時には苦しみがありますが、書いている時に初めて判ることがあり、書く対象を理解するプロセスとしてすべてがあるという感じです。