内田麟太郎(詩人・絵詞(えことば)作家)・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】ナミダもユーモアもボクなんだ
1941年福岡県大牟田市生まれ、80歳。 これまで生み出してきた絵本や詩はユーモアあふれるナンセンス作品から繊細な心の情景を描いたものまで200冊を超えていて、受賞歴も多数お持ちです。 中でも狐と狼の友情を綴る物語が人気の「おれたちともだち」シリーズの絵本はロングセラーとなっていて今月14冊目の本が出版されました。 内田さんの人生と、子供の本に込める思いについて伺いました。
犬とか猫を見るのが好きです。 文章、言葉でも力が抜けた言葉をかけたときに嬉しいという感じです。 詩集のあとがきが力が抜けてていいですね。 あとがきは楽しいものにしたい。 80歳はもうなっちゃったなあという感じです。 年々、文章が柔らかくなってゆくような、それが楽しみです。
3時ごろには仕事を終えて、お茶を飲んで眠ります。 夕方寝をしていると、眠くならないで本が読める。 本を読んでいると眠くなるので、夕方寝に失敗すると本が読めなくなる。 勉強机がないので机に座って本を読むという事は無くて、寝っ転がって読みます。
今年2021年4月までに新しい絵本4冊、詩集も1冊まもなく発売となります。 酒を飲まないのでやることがないので書いてしまって、やはり書くのが好きなんでしょうね。 父が忙しい中よく詩を書いていたなあと思いました。
自分を掘って行く、降りて行って、ふっと力を抜いた時に出てきてくれます。 私の作品の位半分ぐらいはそうだと思います。 200冊を超えていますが、古い作品のことを忘れないでいるという事は新しいものには出会えない。 書いてしまったことは考えない。
福岡県立大牟田北高等学校卒業、19歳にて上京、看板職人をしながら詩を書き始めました。 37歳の時に怪我をして看板を書くことが出来なくなり子供の絵本を書くことにしました。 文章が書けない苦しみがあったが、これに縋るしかなかった。
長 新太さんに出会って、デビュー作が絵本『さかさまライオン』で長新太さんが絵を担当。 その後4冊続けて出しました。 長新太さんに作品を持っていって、これは駄目、これは駄目、と積み重ねていったことがよかったんじゃないかと思います。 最初はナンセンスしか書かないと決めていましたが、ナンセンスはそんなに売れるものではない。 「ともだちや」を書いて、これは売れると思ったが、ナンセンスではないのでそれが嫌だと思いました。 何年かたって、ある編集者にナンセンスではないものが欲しいと言われて、「ともだちや」を送ったら、シリーズにするから次を書くように言われました。 「ともだちや」はジャンルで言うとユーモアがあって胸キュンという感じですが、胸キュンというのが照れるというか嫌なんですね。 好きになるという風に気持ちを切り替えていったら、いろんなものが書けるようになりました。「ともだちや」は転機となる作品で私を解放してくれました。 1998年57歳の時でした。当時は貧乏のどん底でした。
「ぼくたちはなく」の詩集のあとがきに、「皆さん死にたい時ってありますすか。 あるよね、僕にもありました。」と書きましたが、私を産んでくれた母親は小学校に上がる前に亡くなって兄弟二人でした。 ほどなくして父は再婚して、新しい母親は男の子が二人いて、その後二人産まれて、殴るけるとかはしないが私を愛しては呉れない。 私を産んでくれた母親は優しくて、落差を感じて、寂しさを感じて小学校4年のころデパートで万引きをして捕まってしまいました。 生きているのが辛くて、そうすると死にたくなりました。 高校生の終わりごろが一番ひどくて、19歳で東京に出てくるときに、母親を殴り倒して出てきました。
中野の看板屋さんに入りましたが、踏切で飛び込こもうとする葛藤がありました。 これを解いてくれるのが優しさなんですね。 いろいろな人に出会う事で自分の人生が幸せの方に傾いて行くという事がありました。 55歳の時に田舎に帰って、おふくろがいきなり「麟ちゃん愛さなくてごめんね」といったんですね。 吃驚しました。 母親はそろそろ尽きるという事を感じていたようで、その前にどうしても謝っておきたいという事があったようです。 私の中に残っていた自殺願望みたいなものが綺麗に消えたんですね。
子供の文学は死を肯定してはいけない、というんですよね。 このことをずーっと考えていて、理由はいらないという事が判りました。 ビル火事があって、助けを求めている人たちがいるが、理屈を超えて助かってほしいと思うわけです。 人々の心の動きとして世界共通だと思うわけで、理屈はいらない、ここに価値がある。 生きることの有難さをどこかに感じている事ではないか、そのことを信じてみたいと思います。
辛い時には自分を産んでくれたおふくろのことを忘れている。 つらい時は自分のことしか見えない。 母親は6歳と3歳の子供を残して死ぬわけですが、死ぬときに母親の最後の願いは残してゆく子供二人が幸せになって欲しいという事に尽きると思いますが、子供が自ら命を絶つということは母親の最後の願いに応えていないという事です。 自分の悲しみだけが見えていて母親が二人の子供を残して亡くなって行く悲しさは見えてはいないんですね。 母親のほうが悲しみが深いわけ
です。 思ったのは自分はなるべく書いて最後まで生きて行こうと、それが母親の願いに応えることだと思った訳です。
「ぼくたちはもしかしたら、人間が偉いのは、悲しくても辛くても死にたくても生きているからかもしれない。 石は泣くだろうか。 鉄は泣くだろうか。 宝石は泣くだろうか。 ぼくたちは泣く。 辛くて、辛くて泣く。 声を殺して泣く。 声をあげて泣く。 でも僕たちは生きて行く。 辛さを抱えながら、悲しみを抱きしめながら。 そんな僕たちを見て誰かが言っているような気がする。 頑張れ、頑張れ。 僕たちは生きているだけできっと偉いのだと思う。 悲しみをこらえて生きているのだから。 おいおい泣きながら生きているのだから。 それだけで十分に。」
悲しみを知らない人はいない、誰もが悲しみを抱えて生きている。 そのことは凄いなあと思います、大変なことだなあと思います。 最後の拠り所は自分の中の少年じゃないでしょうか。 自分の中の少年が喜んでいれば、面白いんだと思います。 一番幸せな状態じゃないんでしょうか。