小森輝彦(東京音楽大学付属高等学校校長)・校長先生は宮廷歌手
東京都出身。東京学芸大学教育学部附属高等学校卒業。1990年(平成2年)東京芸術大学音楽学部声楽科卒業、1992年(平成4年)同大学院音楽研究科オペラ専攻修了、1995年(平成7年)文化庁在外芸術家派遣研究員として2年間ドイツのベルリン芸術大学に学びます。 1998年(平成10年)プラハ国立歌劇場における『椿姫』のジェルモン役でヨーロッパデビュー。 2000年(平成12年)8月からドイツ、テューリンゲン州のアルテンブルク・ゲーラ市立歌劇場の専属第一バリトン歌手として契約、12年間の間、劇場の看板歌手として活動し、日本人として初めてドイツから宮廷歌手としての称号を贈られました。 2012年に帰国後は二期会に所属し、「マクベス」、「金閣寺」最近では「サムソンとデリラ」に出演、今までに演じた役は70を越えています。 舞台での活躍と共に若い演奏家の育成にも意欲的に取り組み、大学での指導も行ってきました。 その経験をさらに若い世代へ伝えてほしいと、去年東京音楽大学付属高等学校の校長に就任しました。
うちの高校は2020年度にキャンパスを引っ越ししました。 校長も変わり、コロナも来たという事で激動の一年でした。 いろいろ工夫せざるを得ない状況でした。 オンライン授業なども行いました。 通常ですとと500人ぐらいのところをバーチャル空間で出会うというような事を取り入れて、3000人が来てくれました。 地理的制約がなくなりました。 声を出すことを生業にしている時に、教育のことを考えると、声をいかに解放するかという事が僕のライフワークでもあるわけで、舞台でチャレンジするし、向き合あって声を解放し、すると思春期の心の柔らかい子たちがやると素晴らしいことが起こるんです。 コロナで一度足を止めて考えなくてはいけなかったという事に意義があったと思います。 ピンチはチャンスだったと思います。 なにかに対応するときに直感的に判断するという事は演奏とつなげるようにしています。
*「小さくてもおっとりさせるものがあります」 フーゴ・ヴォルフ 作曲 イタリア歌曲集 オペラとして上演、1曲は短くて46曲からなるもの。 その中の一曲です。
元々音楽はやっていなくて、高校はサッカーをやっていて、トレーニングで大声を出していた時に、たまたま聞いた音楽部の人に誘われたのがきっかけです。 岡村 喬生さんの著書を母からプレゼントされて、それを読んで大学受験もしていないのに、ドイツに行って専属歌手になると心に決めていて、留学してドイツで歌えたことは僕にとってうれしいことでした。 1995年(平成7年)文化庁在外芸術家派遣研究員として2年間ドイツのベルリン芸術大学に学びました。 仕事のオーディションを受けて受かるのに4年かかりました。(日本に帰るための準備までしていた。)
ゲーラ市立歌劇場で日本人として初めてドイツから宮廷歌手としての称号を贈られました。 ゲーラ市立歌劇場には12年いました。 結局ドイツには17年いました。 常任指揮者から「音楽的に常に正しかった」と言われて、音楽的にどれが正しいという事はないのですが、音楽的に凄く信頼してくれていました。 バリトン冥利に尽きる役を沢山歌わせていただきました。
*「どんな歌を君に歌ってあげればいいだろう」 フーゴ・ヴォルフ 作曲 先に紹介したイタリア歌曲集の中の一曲
レッスンをすることは無くて、2006年に日本に帰った時にレッスンをする機会があり、歌唱発音を真剣に考えることになり、教えることにつながっていきました。 2012年に日本に帰ってきて大学の専任になりました。 ドイツ語、イタリア語、日本語での歌唱発音を教えています。 ドイツ歌唱発音の継承という事を考えました。 「どの時代にも武者は壁を作り、賢者は橋を架ける」という言葉を聞いて、自分もいろんなところに橋を架けたいなと思いました。
*「祝福あれこの世界の創造主よ」 フーゴ・ヴォルフ 作曲 先に紹介したイタリア歌曲集の中の一曲
本能的に声が出るという状態に近づける、それは心を解放することだし、声を解放することで心も解放されるのではないかなあと思っています。 きちんとしなければいけないのが日本の社会で、きちんとすることも大事ですが、その前に自分の心が、本能が何をやりたいと思っているのかを知る、そのためにはポジティブに失敗するという事、大人が寛容してあげるべきだと思います。 失敗を恐れないメンタリティーを作るという事ですかね。 この仕事は天職じゃないかと思っていて、本当に楽しいです。