室町澄子(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年 アンカートークショー 第五回
49歳の時に「ラジオ深夜便」の担当になりました。 アンカーの中でも最年少でした。 昭和21年生まれ、高校生、大学生の頃からNHKでは野際陽子さんとか下重 暁子さんとか素敵な女性アナウンサーが活躍していました。 結局アナウンサーになりました。 入局は昭和44年です。 東大の安田講堂事件があり、アポロ11号が月面に降り立つ、そんな時代でした。 1970年「スタジオ102」の朝のニュース番組のサブニュースキャスターを担当しました。 初めてでいろいろ失敗をしました。 当時「スタジオ102」は30%の視聴率でした。 その後『女性手帳』『趣味の園芸』、『小さな旅』などを担当しました。 1995年に『ラジオ深夜便』を担当しました。
アンカーとディレクターもやりなさいと言われました。 夜は苦手でしたが、徹夜で仕事をしなければなりませんでした。 半年後、ホームで転んで大腿骨頸部骨折をしました。 その晩「ラジオ深夜便」を聞いていたら、痛みが半減していました。 何かに縋りたいときにこの放送を聞いて慰められましたとか聞きましたが、こういう事なのかと納得した様な体験をしました。 アンカーコーナーはアンカー自身が興味を持っていることを番組にして自分で編集して放送するというコーナーです。 2本立てにすればやりたいことが二つできると思って、第一部が「ミッドナイトクッキング」、第二部を「東京ぶらり旅」という事にしました。 料理研究家・浜田ひろみさんのスタジオに録音機を持って行って料理を習うという、一風変わった料理教室のコーナーでした。 意外だったのが、中高年の男性の視聴者からとても反響がありました。 10年以上やっているうちに、定年後に本職のレストランを始めてしまいましたが、身体がきつくて5年で撤退しましたがとっても楽しい体験でした。
「東京ぶらり旅」はラジオ版の「小さな旅」をやってみようかと思いました。 東京23区内に限りました。 画家兼絵本作家のおのちよさんと“ラジオ深夜便の弥次喜多コンビ”と称し、訪ね歩くことにしました。 深川めしを取材して放送すると、深川めしに関する嬉しいお手紙もいただきました。
「ラジオ深夜便」は忘れていた思い出に出会える番組だと思います。 ちょっとした音楽、ちょっとした話題を耳にすることで、もう一度その日の眼を見るというか、懐かしかったですというお便りがあります。 デパートの屋上で象に乗っている写真が出てきて、その時の思い出話をしたら、お便りが届き来ました。 象を世話をしていた方たちの中の一人の方からでした。 象の名前は「たか子」と言いました。 そのころの情景が細かく書かれていました。 その写真には係の人も映っていて、送ったらその人だという事もわかりました。 当時はその人は38歳でお便りをくださったときには81歳でした。 世田谷のお住まいに伺いました。 「たか子」はその後多摩動物園に引き取られて40何歳かで天寿を全うしたそうです。
言葉の間違いなどいろいろご指摘の便りをいただきました。 60歳で定年になってレストランを始めて、5年後に長野から東京に戻ってきて、スカイツリーの下で骨董屋を開きました。 「東京ぶらり旅」などで骨董品を購入していて、それを売ろうと思いました。 2019年に閉めました。 担当を離れて今年で15年になりますが、ラジオ深夜便の影響をいろいろ受けていると思いました。 番組が私を導いてくれているような気がします。
55歳ぐらいの時に、先生からあなたの身体の年齢は63歳ですと言われてしまいました。 一日8000歩歩くこと、筋トレの体操もやって、1か月実行したら、10歳若返っていました。 100歳まで生きると宣言すると、あなたの細胞はその気になり、そのために何をしたらいいかという事をいろいろ興味を持ってやるようになるという事が本に書いてありました。
「ラジオ深夜便」は心の栄養剤かなあと思います。 身体のことは少しづつ受け入れていかなければいけないというようになりますが、ラジオ深夜便は心の味方になってくれます。