國村隼(俳優) ・腹に落として目力に ~「演じる」とは何か~
國村さんが最もやりがいのある仕事としてあげるのが、ラジオドラマで演じることだそうです。 どういうところにやりがいを感じるのか、又國村さんにとって演じるとはどいう事なのか、伺いました。
東日本大震災から10年になりますが、私は東京の自宅にいました。 3月6日に放送されたNHK宮城発地域ドラマ「ペペロンチーノ」で、東京から支援で被災地に来た整形外科医を演じました。 レストランを津波で流されて自暴自棄になっていた主人公の姿を、アルコール依存症であった過去の自分と重ねて、震災10年目まで酒を飲まずにいられたら打ち上げをしようと伝えるという役柄でした。 医者でありながらもう飲んだら次は亡くなるよと言う重度のアルコール依存症で、でも人のために何かできないかと考えている、一番普通の人だと思いながら、震災にかかわる何かできないかと思っていた自分の思いと、どこか重なるところを感じたので、きっちりできたんじゃないかと感じました。
幅広い役柄をやったほうがやりがいもあると思っています。 悪役をやる時のほうが楽しいんです。 なぜこの人はこうなったんだろうと、いろんなことを話の流れ以外の事を妄想するのが楽しいんです。 僕とそのキャラクターとの対話です。
「ペペロンチーノ」では医者になってあまり対人関係の上手い人ではなくて、どこかでお酒に逃げながら、お酒をおぼれて、自分の命まで危うくしてしまっている現状があり、そこに大震災が発生して彼はボランティアとしてそこに行く。 彼と出会っておまえはおれだ、と。 喜怒哀楽の一番強い表現は眼だと思います。 眼の中に人は感情を秘めて居る。
ラジオドラマは古いものだというイメージでとらえられていて衰退していましたが、スペシャリストみたいな方たちと一緒に仕事をして、その人たちからラジオドラマの難しさと面白さを教えていただいたので、ラジオドラマは今でも大好きです。 音だけで聞いているお客さんにいろんなビジュアルを含めた世界を想像させて想起させる面白さですね。 二人で話す距離感を表現できるんです。 細かなことまで想像することが出来る。 TVの役作りとは全く違います。 自分の柄にとらわれない全く違う人を表現できる、自由度がすごく大きいです。 的確に伝えることが難しいです。 的確にという事は難しいが、例えば肉を焼く音は肉を実際に焼いても的確には伝わらず、濡れぞうきんをアイロンになぞるそうです。 イメージさえ的確なものを持っていれば、全く関係ないものを持ってきても的確に伝えることが出来る。
ナチュラルにやりたいと思うと、自分の日常生活を再現しようとするが、違います。 登場人物の、僕の言葉では腹というんですが、そこが無いとただ単に自分の日常をプレーしてやっているだけです。 キャラクターの腹を自分がちゃんと的確に腹にもっていたら、僕の眼は多分その人の眼になっていると思います。
*「蝶が燃えた日」 FMシアター 10年前のものの一部を放送
自分の経験則のなかで聞いている聴衆がイメージする、それを喚起するためにどうこちら側が刺激する、引っ張り出すかという作業です。 自分の気持ちをコントロールできなくなってしまう場合がたまにあるので、気を付けないといけないと思っています。 腹をイメージできるかどうかで、腹に落ちたなと感じたらそれで準備ができたという事で、あとは現場に行けばいいという事になります。
ラジオというメディア自体が非常にパーソナルな感じがします。 発信者の人の手触り,手のぬくもりが伝わってくるような情報を共有できるようなメディアになっていってくれたらいいかなと、ラジオドラマと個人が対峙している状況が基本なので、深い所へ音だけの世界に行けるんじゃないかと思います。 ステレオではなく、モノラルでラジオドラマを作る状況があれば、やりたいです。 手触り感、古い技術的な表現方法の面白さもあり、技術的に最新がベストであるという事ではないのかもしれません。