2013年8月22日木曜日

平野啓一郎(作家)         ・本当の自分は一つじゃない

平野啓一郎(作家)    本当の自分は一つじゃない
平野さんは平成 11年 京都大学在学中の23歳のときに、「日蝕」で芥川賞を受賞しました
その後も、「葬送」 「決壊」 等 次々に話題作を発表、多くの作品が翻訳されて、フランス、韓国、アメリカ等広く海外にも紹介されています
平野さんは去年発表した、小説、「空白を満たしなさい」で死ぬこと、生きること更には自殺と言う事に正面から取り組みました
毎年、3万人もの人が自ら命を絶つのはなぜなのか、特に30代と言う平野さんと同世代の人たちの置かれた状況や、心内に思いを寄せ、どうしたら自殺を防ぐことができるのか、考え続けました、そして本当の自分は一人ではなく、誰もがつきあう相手毎に様々な顔を持っていて、そのどれもが本当の自分であって、分人と言う概念が自殺を防ぐのに、その救いになるのではないかと考えるようになります
平野さんが「空白を満たしなさい」を通して何を伝えたいのか、そして僕は小説があったからこそ、生きてこられたと言う、平野さんにとって38歳の今、小説とはどのようなものなのかを伺いました

最新作「空白を満たしなさい」 概要
物語の最初は世界中で亡くなった人が生き返るところから始まる 主人公も3年前に亡くなっているが、何故か生き返った人の一人、他の生き返った人は友達等が喜んでくれるが、彼だけは奥さんが喜んでない 実は奥さんから何にも覚えてないと、言われる
実は3年前に自殺したと言われる 或る人とずーっと揉め事になっていて、あいつに殺されたのではないかと、言う事を想い始める
自分の死因をつきとめようとする過程で、段々自分はどういう人間か解ってきて、幸せとは何なのか、奥さんの心に秘めている思い、いろんなことに気付いていって、最終的に真相が明かされる (ミステリー仕立てになっている)

父が自分が1歳の時に亡くなっている(36歳だった)
私自身がその年齢に段々近づいてきて、気にしていた
36歳を越えられない様な気がしていた
作家になって、気持ち的にその年齢を越えるために、自分として、生きると言う事、死ぬと言う事をしっかり考えたいと言う気持ちが前からあった
自分が死んだらどうなるんだろう、と言うのは人の死を見ながら考える
自分の場合は父の死を見ながら考えることが多い、父と関係のあった人が生きていて、死んでしまった人だけが時間が止まった様にずーっといない状態がず―と続いているのが、私の死のイメージだった

自分が36歳になった時に、いままで感じていた時より、より強い現実感を父の死に対して感じるようになった
丁度その頃に子供が生まれて、子供を見ていて、、こういう風に父も私のことを見ていたのかなとかとか、生々しく感ずることがあった
今、38歳 大震災もあって、直接知っている人たちではないが大勢亡くなってしまったと言う事
津波により突然亡くなってしまった(父も急な病で突然に亡くなった)
さっきまで元気だったのに、突然目の前からいなくなってしまうと言う、亡くなり方
構想の段階では大震災は起こっていなかったが、物語をもっと深めていこうとしたときに大震災のことは考えました

物語を描く強い気持ちは、何なんだろうと内省して、私は、亡くなった人に対する、生きている人の一番強い思いは、結局もう一回会いたいと言う事ではないか
亡くなった人と再開出来るところから書き始めようとした
小説のクライマックス(ここが書きたかったという場面) のイメージが無いと書き始めてもどこへ行ってるんだと言う事になってしまう
主人公が自分の死因を解って、自分と言う人間を深く理解して、こういう事だったんだと言うところがクライマックスになっている
主人公に感情移入をしたかった(設定は私と似ている)
人一倍生きたいと言う思いが強い主人公

若い人の自殺している人も多くて年間3万人 15年間で50万人なっている 遺族を含めると100万人単位の人が関係している問題
死ぬこと、生きること  人類の究極の問題 何よりも自分自身が死に対して持っている不安は一番正直なもので、いくら綺麗事を言われても不安は鎮まらない 説得力を持っていない
最終的には死を或る穏やかな気持ちで受け入れられるのかと言う事を、何よりも自分が納得したかった
私が納得できることは、同世代の人たちにもどっかで共感してもらえるのではないかと、願いつつ書いた

主人公が死の真相を探っていくうちに、自殺だとついにわかる
なぜ自殺をしたのか、マイナスのイメージではなくて、よりよい人生を送りたい、もっと頑張りたい、もっと幸せになりたいと思った結果が自殺になってしまった
私はずーっと疑問だったのは、酷い言い方で、死にたいと思って死んでんだったら本人の勝手じゃないか、命を粗末にしたのだから悪いことをしたのだという考え方がある、宗教的にも禁じられていて自殺することはストップだと責められる社会があるし、しかし本当に本人の意思として死のうと思って死んでるのかなと、疑問として有った
亡くなった人の心の中で起きていることは複雑な問題なんじゃないかと考えていた
本当は死にたくなかったのに、自殺してしまっている人は多いんじゃないかと考えていた
メカニズムとしてどういう事が心の中で起こっているのか整理されていなかった

悪い感情で人を自殺させているのであれば、悪い感情を直してゆくことで自殺を食い止められると思ったが、今多くの人を追い詰めているのは、一見ポジティブなまっとうな考えの方が人を追い詰めているんではないかと、自分はどうしてこんなに出来ないんだろうか、こんな生活をしていては駄目だとか 前向きの気持ちだけれども、厳しく自分を責めると、思わぬ形で、自殺することを考えてなくても、結びついてしまう事があるのではないかと考えた
死にたいとかではなくて、嫌な自分を消してしまいたいとか、消えたいとか、楽になりたいとか、そういう事ではないかと思った
多くの人が抱いてしまう感情で、それがたまたま物凄く疲れていたり、冷静になれないときに、手段としして、自殺に結びついてしまう可能性があるが、本人は誰かが助けてあげて、1週間ぐらいしたら死にたいなんて言う気持ちは無くて、留めてくれてよかった、自分は生きたいと思っている、と言うようなことを考えた

今、価値観が多様化して揺らいでいる時代だが 誰もが認める価値は健康 幸福 2つだと思う
20代のころは自分は幸せだろうとか、考えなかったが、30代ぐらいになると幸せかどうかを考え始めるのではないかという気がする
30代で自殺することがあるという事は関係しているのではないかと思う
疲労は人間にとって良くないもので、厳しい時代、人の幸福があんまり喜んであげられなくて、ねたんだり、足を引っ張ったりとか多い世の中で、へとへとになるまで頑張って、掴んだ幸福なら、まあいいかという風に認める雰囲気がある
恵まれているような方でも自殺されている方もいて、物凄くへとへとになるまで働いているとか、そういう社会のいびつさはあるような気がする

結局は人間は一度きりの人生だという事は否定できない
生きていること、死んでいること、 というのを凄くシンプルに 有ると言う事 無いという事
からもう一回考え直したいと思う
さっき、まで隣りにいた人が津波で亡くなってしまうわけですが、亡くなってしまうと言うよりも、いなくなってしまうと言う感じ、消えると言う事から死を考えようと思って、実は亡くなって消えてしまった後にも、消えずに残り続けるものが、いくつか有るなあと思った
遺品、遺伝子(子供がいるなら)、私の事を知っている人の頭の中にある私の記憶、私がしたことの影響力は何らかの形で社会に残ってゆく、写真、記録とかも

急に亡くなっても、しばらくは親しい人の間に私の中の何かは残り続けると思った
自分が愛している人が生きているい間は存在の余韻が残ってればいいなと思うが、そのひとたちもいなくなったら、そのあとまで残り続け無くてもいいような気がする
死ぬと言うよりも、消えるんだけど、消えないものもいくつかあると考えると、少しは死を受け入れるという意味で、穏やかな気持ちになれる気がした
消えてしまうと思うと残したいと思うが、いくつか残り続けると思うと、逆にあんまり残っちゃいけないんだという気もした
社会はドンドン新しい世代の場所として続いていくわけで、子供、孫の世代が新しい社会を生きてゆく、そういう時に私の何かが残り続けてても、自由に新しい世界を次の世代がいきていけないんじゃないかという気がした
だから主人公も、奥さんと子供を残して、自分が又死んでゆくと怖いし、残念だが、思っても奥さんが再婚したいと思ったときに、妨げになるんだったら、消えてしまう方が良いんじゃないかと思うが、なかなか割りきれない感情で最後まで揺り続けるが、そういうなことを掘り下げた

自殺 主人公が自殺防止に取り組むNPOの代表取締役
ゴッホの自画像 一杯描いている 多様な書き方をしている
人間、自分の中にいろんな自分があって、そのいろいろな自分をゴッホは自画像として描いていると思うが、自殺するという時には葛藤すると思う
ゴッホの場合は弟との関係が特殊で、経済的なのも依存していて、弟が結婚してゆくときに経済的な支援が難しくなる 
その時にゴッホのいろんな自画像の顔を見ながらどのゴッホがどのゴッホを否定しようとしていたかを、見る中から自殺の危険を持っている人が、もう一度自分の心の中を見直して、どの自分が嫌で、どの自分が嫌ではないかという事を心を整理してったらいいんじゃないかという事を書いた場面なんです その事を説明するために「分人」という言葉を使った
個人に対応する言葉 として作った造語  個人は分けられないもの  individual
分けられない 一人の人間は分けられないというのが語源
人間はいろんな自分を持っていて、むしろ分けられる複数の顔を持っているという風になんとなく感じていると思う

分人 なんで大事かというと 子供のいじめ、会社での嫌な思い 自殺を試みてしまう事もあると思うが、本当は自分の中にいくつもの分人があって、会社での、学校での分人は嫌だが、友達、家族との分人は嫌な分人ではない
いくつかの分人がいろいろな形で自分の中にある
嫌な分人はあるんだけれど、生きていて楽しい分人もある
そこを足場にしながら、辛い状況に陥っている分人をどうしようかと、いう風に考えてゆくと、そういう風に心の中を整理できれば、自分を全部を消してしまわずに、嫌な部分だけについて考えという風に考えられるのではないかと思った
好きな分人を足場にすることで生きていけるのではないかと、小説の中で言いたかった一つ

理解してくれる人と会ったときにどんどんそこから新たなコミュニケーションができてきて、救いの道が出てくる
自分を肯定することは凄く大事なこと
相手との相互関係の中でお互いに影響を与えながら、好きな自分になったり、嫌な自分になったりする
鏡を見ながら自分のことを、自分でひたすら自分を好きになるのではなくて、相手を一度経由して、相手のおかげで自分のことを好きになれるという考え方が大事
好きな自分の半分は相手のおかげ  環境との相互作用で、嫌な自分にもなることもあるし、好きな自分になることもある

10代のころは、生き、死に、父のことなど深い話をなかなか日常生活で出来なくて、友たちと接してても満たされなかった
自分の居場所を思い悩んだ時期もあった
本当の自分は一つあって表面で会わしているという風だと辛い
複数の自分を本当の自分としてとらえて、その構成比率、を考えながら生きてゆく方が自分の実感に近い
どういう考え方をすれば乗り越えられるのか、どういう体験があると自分として前進できるのかを考えている

今まで自殺未遂をしたけれど、もう自殺をしなくていいような気がしますと、何人の人からも言われて、書いてよかったなと思いました
小説をよむことによって、人生がより楽しくなったり、救われたりするひとたちが潜在的にはいると思う
実生活では限られた経験だけれども、小説はいろいろなことを経験させてくれるので、私にとって生きる糧そのものだった
小説を読むようになって、人類が考えてきた大問題だと知るようになって、救われる気がした
内にこもって考えていると、なかなかそこから先に進めないが、人と接したり、本と接して 外との関係の中から自分も更新されてゆくと思うので、小説は私の中でいつも新しい、自分の中になかった分人を作ってくれる実感がある
小説は読者が共感してくれることが大事だが、それ以上のものであるべき
読む前と読んだ後では、なんか自分が変わった感じがする、新しい自分になれた気がするという体験が凄く重要
読んだことで人生がちょっと変わった感じがするとか、というような作品を作り続けていきたい