2017年11月18日土曜日

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー
國森さんは人が亡くなる最後の瞬間まで、家族や親しい人達が見守り看病する看取りの様子をカメラに納め、写真の絵本として出版してきました。
これまでに取材した看取りの現場は国内の100以上に上ります。
國森さんが看取りを取材するようになったのは、海外で多くの人の命が無残に奪われる冷たい死を目の当たりにしたからです。
近しい人々に看取られる温かい死を集めた写真絵本に國森さんはどんな思いを託したのでしょうか。

きっかけは戦争取材がきっかけでした。
冷たい死を戦争や紛争地で知って、自分はそんな冷たい死は無くしたいと思いました。
これからは天寿全うできる温かい死を知って伝えて共有して行けたらなあと思いました。
2000年に地元の新聞社記者になり、2003年にイラク戦争を取材、新聞社を辞めてフリーランスになる。
子供のころからいい加減な性格でしたが、戦争だけはやってはいけないと思ってきました。
イラク戦争で、必ず子供たちが巻き添えになって殺されてしまう、そんな人災を抑制するためには現場での報道が不可欠だと思って、新聞社を辞めてフリーランスになりました。
10年で15カ国近くを取材。
イラク、ソマリア、スーダン等の紛争地、ケニア、ウガンダ、カンボジア等のスラム街、孤児の村とか、生活困窮地を回っていました。
特に子供たちが亡くなって行く姿に衝撃受けました。(銃撃、爆撃、病院が破壊され治療が受けられずに亡くなって行く人たち、子供達)
イラクでは車に仕掛けられた爆弾があって、最初は小さな爆発音が鳴って小さな子の鳴き声が聞こえて、皆が助けようと思って車に駆け寄ると、大きい爆発がドーンとして、何人も亡くなり、女の子もいて亡くなってしまった。
写真を撮るかどうか躊躇しているときに、お前がシャッターを押さなくて誰がこれを伝えてくれるのか、写真を撮って世界中の人に伝えてこの戦争を止めてほしいと言われました。
その言葉がなかったら写真は取れてなかったと思うし、報道して世界に伝えることが出来なかったと思う。
その言葉は自分の胸に深く突き刺さっています。

展示会をしたときに、かわいそうだけどどこか遠くで起きた出来事であって、自分とはかかわりがないとか、命がけであなたがいっても日本の社会が変わるとは思えないとか、行くのは自己責任で国や世間に迷惑をかけるなよ、と言う様な事を言われることもありました。
共感してくれる人もいれば距離作って避けて行く人もいました。
身近な人の命を大事に思うことが出来て、それが出来て初めて遠い立場の人の命も思いやることが初めてできるようになるのではないかと考えるようになりました。
温かい死、悲しくも幸せな死を先ず自分が知って、取材したいと思うようになりました。
新聞記事で温かい死を書いてある記事があり、島根県の病院の無い小さな島に看取りの家がある、そこには幸せな死を寄り添って手伝っているヘルパーさんの話が載っていたので、取材に行きました。
2008年から取材を開始しました、生まれ育ってきたお爺さんさんお婆さんがいて、年老いたらそのまま島の中で亡くなって行くのが自然の流れだったが、最近最後は病院でと言うようなことになるが、死ぬ時だけ島を去らねばならないのが辛いと泣いている人たちがいて、何とかしたいと思ったヘルパーさんがその島で最後までいられるように看取りの家を建てたと言うことです。

今年『いのちつぐ「みとりびと」』と言うタイトルの写真絵本12巻を完成させ出版。
看取られてゆく本人、見送って行く家族、医者等の想い、あとがきには自分の思いなどを含めてつづらさせてもらいました。
2008年から本格的に看取りの取材を始めました。
写真と簡単な説明。
100以上の看取りを取材、れんちゃん(当時小学校5年生の女の子)と一緒に暮らしていたひいお婆さん、たけこさんの事は話は第1巻にあり心に深く残っています。
れんちゃんが大きくなってゆくに従っておばあちゃんは足腰が弱くなり、認知症が重くなり、れんちゃんの名前も忘れて行く。
おばあちゃんが亡くなって冷たくなってゆく身体を一杯触って「大事にしてくれてありがとう」と言って手をしっかり握って、おばあちゃんの土色の手とれんちゃんの血が通っているピンク色の手を見て命のバトンが手渡されていると感じました。

三重県との県境にちかい山奥の君ヶ畑という集落、なみおばあちゃんは認知症も深まっているが、長年一人暮らしをしておる。
生まれ育ちも、結婚、育児、家事、旦那さんの介護、看取った人生、なみおばあちゃんの所には息子さん娘さんがいて、或る時急に息子さんが立ちあがっていった時には息が止まっていたが、娘さんの呼びかけにもう一度息をし始め、手を握って「もういいよ」(もうゆっくり眠っていいよ)という娘さんの言葉に安心するかのように、おばあちゃんは完全に息を引きとりました。
おばあちゃんの顔を見ると目から涙がこぼれていましたが、それを見て「これでよかったんやね、ばあちゃん」と娘さんはぼろぼろ涙を流していました、涙の中にもほほえみのようなものが伺えました。
亡くなっていっても心の中に生き続ける、悲しみの中にも或る安心感が生まれて行くように感じました。

最初は看取り、死の現場は、悲壮感の漂う苦しい悲しい辛い現場と身構えていたが実際にその場にいると、エネルギーを感じてしまいます。
冷たいだけの死とは違って、温かさと希望も感じる様なものがありました。
内側にたまっているエネルギーを見て行く必要があるのではないかと段々思うようになりました。
私たちは生まれてくるから死ぬ、それを肌で知ってほしいと思っていました。
『いのちつぐ「みとりびと」』の絵本を学校とか、自治体などにも取り上げられたりしていて、両親お爺さんお婆さんと一緒に読んでほしいと思っています。
死、生、命のバトンというものを五感で感じてほしいと思いました。
小さいころから知ってほしいと思ったので写真絵本にしました。
生老病死は避けては通れないし、逃げてはいけない、逃げられない。
生きていくうえで死を意識して、家族も、自分もいつかそういう日が来る、だからこそ今日と言う日をどうやって生きるのかを強く考えなければいけないと思っています。

自宅で最期を迎える人は1割しかいない。
れんちゃんが住んでいる滋賀県東近江、永源寺地域では自宅で亡くなる方が5割前後です。
都市部では人のつながりが希薄、高齢者人口が増えて行くが、どのように温かい看取りを実現させているのか、取材しないといけないと思って共暮らしに注目しました。
ガン、認知症が深まったりして、身寄りが亡くなったり、家族では介護出来亡くなった人たちが一つ屋根の下で最後まで暮らすホームホスピス(「ゆずりは」)が小平市に有って、2014年春から通わせてもらいました。
最初はぎくしゃくしていたそうですが、一緒に暮らすうちに、同時代を生き抜いてきた苦労を分かち合って、身体、心の苦痛を分けあっていたわるようになります。
皆で看取る温かい旅立ちがあります。
地域によって事情は違うとは思うが、地域地域の人のつながりを築いていけば、その中で温かく満たされてゆく、そういった営みが出来ると思うようになりました。

豊かな看取りが出来る社会とは、大前提は戦争があってはならないし遠ざけなければいけない、社会的弱者に優しい社会が大事だと思います。
命のバトンリレー、あなたが生まれてくるのには両親、祖父母・・・、100万人存在する。
自分の命は何百万人の命もかかわっていることを意識することがないと、他の人、遠い国の人のことを思いやれないのではないか。
戦争、貧困に関心を持ってもらうことが必要だと考えています。
写真を撮る人、映っている人の共同作業で、それを観る人、それぞれどう共鳴するかは千差万別で、自分の人生経験と照らし合わせながら一枚の看取りの写真を観ると言うことで、看取りの写真は自分ごととして、心を膨らませていって捉えていって欲しい。
戦争で亡くなって行く子供たちの事を思い浮かべながら日本のお爺さんお婆さんにカメラを向けて来ました、世界中の子どもたちがお爺さんお婆さんの様に、命を全うして命のバトンを繋いでいけるような世の中になればいいなあと思って撮っています。