山崎理恵(NPO法人「みらい予想図」理事長)・重症心身障害児のあしたのために
50歳、この9月に重度の肢体不自由と重い知的障害のある子供、重症心身障害児、重症児を対象にしたデイサービスの施設「いっぽ」を高知市に開きました。
山崎さんは3人の子を持つシングルマザー、12歳の次女音十愛(おとめ)さんは全盲で重複障害のある重症児です。
音十愛(おとめ)さんを育てる中で、山崎さんが痛感したのは重症治の介護や看病に当たる母親の休まる場が無いと言うことでした。
同じ境遇にある親たちが支え合い休らぐ場所を作りたいと施設を立ち上げました。
しかし事業の経験もなく経済的な余裕もなかった山崎さんにとって、これまでの道のりは決して平たんなものではありませんでした。
事務所として使われていた建物を改装して作られた。
身体障害者手帳と知的手帳があるが、両方の手帳が共に最重度であるということが認められた子、プラス高度な医療が必要な子(気管切開されている子等)、医療的なことがとても高度で何処にも行くところがないお子さん(医療的ケア児)も含めて総称を重症児と言われています。
ほとんど寝たきりのお子さんが多いです。
常に何かの介護が必要、医療的なケアが必要なお子さんが多いです。
事業するにあたっての人員配置では、普通のデイサービスよりもうんと厳しくて、全てが有資格者でなくてはいけない。
私自身も看護師の資格を持っています。
音十愛(おとめ)は3人目だった、途中から育ちが悪くて羊水がほとんどなくなって緊急オペになり、オギャと小さい声で泣いたが直ぐに連れていかれて、2日間会わせてもらえなかった。
ただ事ではないと思ったが、2日後に本人に会わせてもらったが、そのときのショックはいまだに忘れられない。
見た瞬間、管がいっぱい入っていた。
顔は鼻から下が全部裂けていると言う感じでした。
手足も不揃いでした、それを見た瞬間血の気がスーッと引きました。
お腹の中の児に私は何をしたんだろう、普通に産んでやれなかった事を物凄く罪と思いました。
目の事はその時は言われなかったが、部屋に帰ってから先生が目がないんですと言われ、目の中に眼球がないと言われてしまいました。
どうやって育てていこうかとずーっと考えていて、どうしてと受け止められなかった。
これほどの障害のある子はどういうふうに育ってゆくかは予測が出来ない、内臓にも異常があるかもしれないので、とにかく普通に育ててくださいと、簡単に医師から言われました。
最初は泣いて泣いて、一生のうちの涙はその時流したと思うくらい、泣きました。
助産師さんには今でも感謝していますが、泣いて暮らしている私に毎日ベッドサイドに来てくれて、ただ私の話を聞き出そうとしてくれて、「そうやね」といって受け入れて、或る日助産師さんが「赤ちゃんは頑張って生きようとしている、凄く元気よ、この子は生きたいと思っているから、お母さんがしてあげられることは何かないかね」と言ってくれました。
心配ごとの高い順番から並べて言って、と言われて、「一番は目が見えない目がないといういうことが一番ショックです、どうやって育てていいのか、わたしの顔も一生判らないんですよね。」といったときに「わかった」と、その心配事を少しでも和らぐために、相談できる人を探そうと言うことになりました。
ソーシャルワーカーが探してくれて、高知女子大学にいた助教授の先生を紹介してくれました。
その方自身が弱視でほとんど見えない方でした。
話を聞いてくれて、全然普通に育てていいよと言われました。
色んな事が出てくるかもしれないが、出てきたら出てきた時に考えればいいと言われました。
最初そういう人達に支えられました。
全てが困難の連続でした。
口が割れていたので、ミルクが飲めない。
鼻に管を入れて退院したが、口から飲む練習をしましたが、口から飲ませて体重を増やすことが物凄く大変でした。(体重が増えないと口の手術もできない)
1、2年かけて1kg増やす目安で5kg目指すのが、物凄く大変でした。
自傷してしまう子で、昼夜の区別が出来ないので睡眠時間が凄く不規則で、夜通し泣いて、自分の思いが伝えられなくて、いらいらして頭を壁にぶつけたり色々やっていました。
一晩中抱っこして、また朝が明けたと言う日が毎日続いて、3時に主人が起きて主人に交代してもらって出勤するまでやってもらって二人三脚でずーっとやっていました。
それが長く続いて5歳までは入退院のくり返しで、その間おおきな手術が2回して、生死をさまよいました。
兄弟が有ると、兄弟の行事とかで外に出ていかないといけない時もあり、外に出ると好奇な目が降り注いできて、心ない言葉も浴びました。
スーパーに行ったりすると子供が寄って来て、「ワー気持ち悪い」と言って走って逃げてゆくことが何度もありました。
大人の方も「こんな子が生まれるのは親の責任や」といって言ってしまう人もいました。(見ず知らずの人から言われた)
社会に出ていく怖さがありましたが、何を言われようと出て行こうと腹をくくりました。
「ワー気持ち悪い」と言っていた子が、2回、3回と会ってゆくうちに段々寄って来るんです、そのうち「可愛いね」と言ってくれるんです。
経験を重ねるごとに人は受け入れてくれるんだと、経験しました。
社会に出て行って傷付いたことも沢山ありましたが、教えてもらったこと、学んだ事が沢山ありました。
外に連れ出したと言うことは、私の心も強くなりました。
成長とともに命の峠がある、落ち着くんです。(5歳ごろからでした)
医療的なことが必要な子は単独では保育園には通えない状況でした。
3歳のころはミルクを鼻からチューブで入れる様なので、受け入れてくれるところはなかった。
盲学校の幼稚部に入れないかなど色々と相談したが無理だった。
いつかは私が先に亡くなるので、この子が何もできなければどうするんでしょうか、社会の中で生きていける力を少しでも付けられるように、そのために社会性を身につける場所に通わせてくださいと、お願いしましたが、駄目でした。
盲学校の先生に、高知にはいられないので高松(実家)に帰ると言ったら、とにかく発信しなさい、聞いてもらいなさいと言われて、高知県母親大会と言うところを紹介されて、そこで全てさらけ出しました。
最初一個人の問題は取り上げられない場合が多いが、真剣に聞き始めてくれて、音十愛(おとめ)さんだけの問題ではなく先に繋がるお子さんがいるはずだと言うことで重要課題に取り上げられました。
世論に訴えなさいとも言われて、新聞の投書欄(声広場)にだして、それが一つの流れになって、署名活動にもつないでいこうと言うことで、「音十愛(おとめ)ちゃんを幼稚部に入れる会」が結成され、全国に署名依頼して2万筆位集まり、それを持って県の教育委員会にいき、2カ月しないうちに特例で認めてもらいました。
子供たちの中で活動することで、育まれることが色々あると思いました。
今は鼻からのチューブを止め胃瘻(いろう)にしています。
主人は仕事もしていて、子供を見ながらと言う事は介護疲れがとってもあって、家庭の中の歯車がおかしくなって、或る日突然仕事にいけなくなった。(鬱病だった)
結果的に離婚という選択になってしまった、一緒にいていたら共倒れになっていたと思いました、決断としては良かったと思います。
離婚する前から、このままこの子を育てていく人生なのか、音十愛(おとめ)は自分が居なくなった後にどんな世界で生きていくんだろうと思ったときに、施設に入ると言う道しかなかったが、もっと選択肢があってもいいのではないか、この子が笑顔の素敵な子だったので、誰かを元気にさせる力があるのではないかと漠然と思っていました。
シングルマザーで経済的にも厳しく生きて行くのが精いっぱいで、私もうつ病にもなり、実家に帰ろうかと思っていたときに、あるきっかけで地元の新聞に私たちのことが連載されることになりました。
重症児のデイサービスを全国で当事者のお母さんが立ちあげることを手伝っている方に出会うことになりました。
その人の「無ければ作ればいい」という言葉にピーンと来たのは、ずーっと自分は何をしたらいいか判らなかった殻?にならなかった部分が、パーンと殻?になりました。
重症児で、高度の医療的なことが必要な重症児を預かる、お母さんの介護疲れを支援出来る施設がないと思って、これをしようと思いました。
同じ様な環境のお母さんがいたりして、頑張るお母さんがいましたが、彼女は自殺をしてしまいました。
大事なお子さんが先に旅立たれて後を追ってしまいました。
何もしてやれなかった自分を攻める気持ちが凄く大きくなって、自分の中に引っ掛かりました。
同じ様な経験をしたお母さんたちから貰う勇気はおおきい、人から貰った一言から明日に繋がると言うことは結構あるので、出会いが結ばれる出会いの場は多ければ多いほどいいと思って、二度と悲しい出来事がないようにとの願いです。
まずこれを選んで、次にもしたいものがあるので、「みらい予想図」としたんですが、制限をかけないように自由にすごせるような場所も作りたいと思っていました。
この事業は通過点だと思っています。
一つ一つのヤマを考えると怖くてできなかったと思います、先の殻?が見えたんです。
誰かの力を借りながらクリアしてゆくしかないと思いました。
色んなことが山の様にありましたが、諦めなかったらクリア出来ました。
強い思いは子供たちの未来です、それからここまで来るのには本当に沢山の人にお世話になりました。
そういう人達の顔が浮かぶし、そういう人達に甘えてきたので、何か返したいと思います。
どんなに障害が重くても、その子なりに発達って絶対あるんです。
音十愛(おとめ)の場合は言葉が増えていきましたし、歩けない子が歩き出したと言うような発達もあります。
脳性まひのお子さんで本当に反応あるのかなと言うようなお子さんでも、お母さんにはよろこんでる反応とかが判るんです、それを第三者が判るまでには時間がかかります、微々たる反応ですから。
自分を表現できることが嬉しいことに変わって、僕をわかってくれる人がいると言うことが、また反応に繋がる。
ここは始まりの一歩で(0から18歳まで)、要求が高いのは、卒業した方が行き場がないと言うこともあるので、18歳以後の方が過ごせる場所が必要だと思って作らなければいけないと思います。
夜もケア出来るところもないので、家族が休息できる場所も必要だと思います。
どんな人でも共存できる、笑顔で過ごせる場所が最終目標です。
手をつなぎながら未来を作っていきたいです。
音十愛(おとめ)は、自分の人生を導いてくれる大事な先生ですね。