2017年11月15日水曜日

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を
1948年昭和23年栃木県生まれ、1974年東京教育大学大学院芸術科を卒業、28歳のときに都立高校の美術の教師となり31年間現場で教えました。
2007年定年の1年前に退職し、ある程度自分の人生を生きたら、どこかアジアの国の子供たちの支援をしようと言う以前から抱いていた思いを実行することにしました。
笠原さんが美術スクールを建てる国探しをする中で、選んだのがカンボジアでした。
カンボジアは1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に、社会制度が徹底的に破壊され、その後学校教育は復活したものの教育できる人材が育っていない状態でした。
笠原さんはさまざまな困難に直面しながらも、2008年12月、アンコールワットのある町、シェムリアップに小さな美術スクールを立ち上げました。
現在350人が学んでいます。
美術スクールの開校10周年を記念して、10月中旬の1週間東京銀座の画廊で絵画展が開かれました。
絵画展のために6人のカンボジアの青年画家をつれて一時帰国した笠原さんに伺いました。

絵画展は大変多くの日本人の方が来て盛況でした。
約200点持ってきました、年齢は4歳から30歳までです。
カンボジアに2007年に来ましたが、活動を始めてから日本の人に見せたらどうかと言う話がありギャラリーの方が無料で貸してくれて、絵を売りまして彼らの生活に活かせるようにと思って作品展をしています。
6人の方には絵の具工場で絵具の作られ方とか、版画の勉強などもして貰っています。
彼らは飛行機、電車に乗るのも初めてです。

7歳で母を亡くして、7歳で人の人生に終わりがあることを感じました。
小学校4年生の時に、桜の写生会で桜の老木が根を張って根から若葉を出して花が咲いて、生きているんだなと実感して、絵を描くのは面白いと思って絵が好きになりました。
終わりのある人生をどう生きたら自分が納得できるかと考えて、美術を選びました。
人生の最後はちょっと人の役に立つことをしようと漠然と考えました。
ゴーギャンのタイトルについても考えさせられました。
「我々は何処から来たか、我々は何であるか、我々は何処へ行くのか」
大学院卒業後、フリーの画家として作品を描いていましたが、その後28歳で教師になり都立高校4校経験して、都立新宿高校では11年間勤めました。
赴任した時には3人の女性教師しかいませんでした。(女性の生徒は1/3でした)
新入生にたいする案内書、ゲーテの「生き生きと生きよ」新入生にたいする新宿高校の伝統から考えられた贈る言葉だと思います。
31年間教えて定年1年前に退職しました。
段々教師も締め付けられるようになって来て、追い詰められたような感じがして、資金も出来てきたのでカンボジアで自分の新しい生き方を試してみようと思いました。

ネパールを対象にしようと思ったが駄目で、インドはきついと思って、カンボジアの方と東京で知りあって、その方のいった、「ポルポト政権時代は何処からも何の助けもなく真っ黒な時代」と答えてそれが印象的でした。
2003年に初めてカンボジアに行きました。
2005年に土地を買って、2007年に学校建設を始めて2008年に開校しました。
電気、水道、ガスもない、すごく驚きました。
1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に社会制度が徹底的に破壊されました。
子供達は10年前はゴミ拾いをしていましたが、今は減ってきています。
貧富の差が激しい感じはします。
社会保障制度が全くないので、家族がお互いの収入を持ちあって何とか食べていく状況に有ります。

20年間貯金をして退職金を投入して、自己資金で学校を建てて、完全無料の学校を目指して始めました。
土地の登記台帳がちゃんとしていない、購入した土地の道に関する政府案との対立で訴えられて5カ月工事が中断しました。
住民案を拡張するということで調整が付きました。
カンボジアでは外国人は土地を買えないので、名前を借りますが、このままだと危ないので名義変更した方がいいと言われて、お願いしたがなかなかOKして貰えず大変でした。
悪いことをしに来たのではないのに、どうしてこういう目に会うのか、考えさせられた時がありました。
色々なことが同時進行して、解決する見通しが立たなくて、髪の毛が抜けて禿になり、胃を痛めて体力を落としてデング熱にもなり、初めてカンボジアで入院しました。

最初は1人男の子から始めました。
日本語学校だと思ったらしい。
兄さん、友達が来て、絵の学校だと言うことで絵を描きだしてそれがスタートでした。
最初何を描いていいかわからない、経験がない、絵を見たことがない子がほとんどです。
或る学校に教えに行ったときに、90人いるうち絵の具をもった子は2人で、親の出稼ぎ先のタイで絵の具を使ったと言うことだった。
生徒は一時期は400人を越えましたが、今は350人位です。
日本語の教室も行っています、貧しくて月謝(10ドル)を払えないので学ぶ事もできない。
このスクールでは完全無料でやっています。
2013年までは私の完全な個人資金でやって来たのですが、子供たちの作品を見てくれた方々、大学の後輩が活動支援システムを作ってくれて、会員制サポートクラブを作ってくれてすこし資金援助をして下さってもらっています。
ある企業の方がインターネットのウエブサイトに資金援助のサイトを作って下さって、送ってくださっています。(100%だった個人運営資金が43%になりました。)

画材は日本から1トンの画材を送ってそれを使っていましたが、カンボジアでも外国産ですが買えるようになって、購入しています。
子供たちの作品展を日本でやった時に、日本の絵の具メーカーの社長さんが見て素晴らしいと言って下さって、絵の具を寄付してくださっています。
展示販売活動、坂田優子さん(小さな美術スクール・アートコーディネーターとして制作、広報等を担当。) 事業組織にした方がいいと言うことで販売活動しています。
大きくなった子供達が出張授業にいってやっています。
日本にいた時は豊かさに疑問をもたなかったが、色んなものがたりていない国での生活でありながらも、人間としての一番基本の大事なものを忘れないでいると思っています。
子供達は家の手伝いをしないと成り立たない。
喜捨精神、年老いた老人、地雷で手を無くした人たちが物乞いするが、カンボジア人が喜捨していますね。
自分も困っているが貧しい人が貧しい人を支えていると言う感じはします。
子供たちの目の輝きには感動します。(内面からの力)
後継者、展覧会に来た人たちの何人かは継いでくれると思っています。
こういった形になってきたのも、通訳の青年チウ ヒーア(2006年度日本語スピーチコンテスト優勝。現在、小さな美術スクール通訳及び日本語教師の傍ら美術制作にも励んでいる。)がずーっとやってくれたおかげ、坂田優子さん、多くの方の善意で色々なことが出来るようになってきました。