2017年11月22日水曜日

岩井喜代仁(茨城ダルク代表)      ・薬物依存からの回復25年

岩井喜代仁(茨城ダルク代表)薬物依存からの回復25年
昭和22年京都府生まれ 70歳、家が貧しく中学卒業後すぐに働きますが、不良行為で仕事を無くします。
18歳で暴力団に入り、その後覚せい剤に手を出したのがきっかけで、薬物依存になって仕舞います。
頭の中は覚せい剤のことばっかりになり、妻や子を捨てて家族や友人との交わりを断ち、警察にも逮捕されます。
幻覚症状などに苦しみ抜いた末、助けを求めたのが薬物依存症の回復施設、ダルクを創設した近藤恒夫さんでした。
45歳の時、近藤さんの支援で岩井さんはやり直しの人生に踏み出したのです。
岩井さんは現在薬物依存症の人達の回復サポートをして、中学生や高校生に自分の体験を語り薬物依存症の注意を呼び掛けています。
人の助けや善意のお陰でここまで来られたと言う岩井さんはカトリック信者となり、祈りと黙想で一日を振り返り、薬物依存に戻らないようにと毎日自らを戒めているそうです。
薬物依存は回復可能と言う強い信念を持って、活動を続ける岩井さんに伺いました。

今の施設のあるところは売人さん(覚せい剤を売っている人)が住んでいたところで、ダルクの事を知った持ち主が誰も家を借りてくれないということで、近藤さんと会って、そこに連れて行かれたのが始まりで僕にも因縁の有った所です。
ダルクは薬物依存回復センターの略です。
23歳の時に組のかしらをしていて、博打打ちでしたが、博打だけでは飯が食えないので、覚せい剤を売るということで、薬を扱いだした時に、当時フェリー会社で近藤恒夫さんが乗っていましたが、薬をよこせと言うことで、お客さんになってはじまりました。
自分も薬を使うようになって止められなくなっていきました。
自分は意志と根性はだれにも負けないから、1回だけなら止められると思っていたが、やめられないところに陥って27歳まで使って、どうにもならなくなりました。
組の掟を破ったので、(薬は売るが使わない)自分の指を落として、それでもやめられずに2カ月後に2本目の指を落して、33歳のときに破門となり組をでました。
薬を売りながら日本中を駆け巡りますが、昭和60年に薬10gの保持で逮捕されて東京拘置所に60日間入れられ、留置所のなかでは真剣に止めようと思いました。
執行猶予で出て、歌舞伎町の若い衆の処に行って薬を要求しました。
拘置所を出てから3時間半後のことでした。

家に帰って、働こうと思ったが働けない、山に入って行って薬を使い始めて、仕事をしたら止められると思って、コンビニに行き雑誌をみました。
最初に目についたのが、不良時代の仲間のことが書いてあって、薬物依存症は病気で辞められない、治らないが使わないでいることが出来ると書いてありました。
近藤恒夫さんの文面でした。(23年ぶりの再会でした。)
近藤恒夫さんは東京ダルクを立ち上げていました。
日暮里で再会しました。
仕事をしたいので保証人になってほしいと言って、調理場を紹介してほしいと言いました。
食事をしようと天ぷら屋に来ましたが、混んでいて食事に有りつけるまで2時間がかかりこの2時間が自分の運命を変えました。
近藤さんはその2時間で色んな事を聞いてくれて、最後に子供を捨てて無いんだと、それなら薬を止められるかもしれない、お前の努力次第だ、俺の仕事を手伝えと言われました。
連れて行かれたのが今の施設でした。
しかしここは俺が薬を下ろしていたところで持ち主は逮捕されていて、持ち主がいないので近藤さんは月1万円で借りていると言うことだった。
東京ダルクに来る人達の入れ墨を入れている人、不良っぽい奴を預かれと言われました。
一緒に生活することによって、給料をやると言われて始めて25年になります。
以後一切薬物は手を出していません。

薬物依存、ギャンブル依存、アルコール依存、食べ吐き(痩せたい為に吐き続ける)依存等色々あるが世界保健機構では病気として認めているが、日本では遅れている。(25年のずれがある)
大麻、覚せい剤、危険ドラックは使ってみるまで自分がどうなるか分からないし、治療法がないから危険ドラックなんだと、日本にある薬物は全部危険ドラックと若い人たちに言っています。
使ったらどうなるかと言うことを話して、みんなで考えてほしいと言います。
①薬を使えば病気になる。
②使ったら自分の身体でどんな責任をもたなければいけないのか。
③薬物から自分の身体を守るのにはどうしたらいいか。
④使い続けたらどこに相談に行ったらいいのか。
⑤人間として使い続けたら自分から何が無くなるのか。
これを伝えるとちゃんと感想文を書いてきます。
最初体験だけ話をしていたが、感動すると言う事を書いてきて薬物防止にならない、怖いと言うことがなくて、5つのテーマで話すとそれぞれ色々と感想文を書くようになりました。

1993年に茨城ダルクに来たが、或る日栃木県の行政から講演依頼が来て、近藤さんと一緒に行って話をしたが、校長先生が家の学校に来てほしいと言うことで、何校かいきました。
県庁と話をして社会福祉法人を作りたいと言って準備を始めているうちに、反対運動が起こりました。
自助グループがあり1953年にアメリカで出来たグループで、地域の中に自助グループのミーティング場を作る、その時に薬物と言うと会場を貸してくれないので、カトリックの教会を借りろということで(神父は理解しているので)、近藤さんがダルクを作るきっかけになったロイ神父が私の友人ウイリアム・ドネガン神父が下館にいると言って、会場を貸して下さいと言ったのがはじまりでした。
ローマから総長が来て、色んな事がある中で僕が洗礼を受けるきっかけになりました。
僕はドネガン神父と聖書の勉強をする訳です。
神様はあなたを作って来て今あなたは私の前に会わせてくれた、今生まれ変わりませんか、洗礼を受ければあなたは生まれ変われる、と言われてやくざの私としては都合のいい話と思いましたが、やってみようと初めて洗礼を受けて変わっていきました。

NAグループのプログラムは聖書に近くて入りやすい、それが生まれたのは1930年代 、のんべえと神父さんが始まりで良く出来ていて、全世界で依存症の回復に行われている。
ダルクは辞めさせる所ではなくて、使わない生き方を仲間とともに学び取る、それがダルク。
自立、ダルク、刑務所、これが唯一薬を使ってきた人たちが選べる道です。
ダルクに来るには深く親が関わってくることが必要。
自分のモラルの棚卸表を作る、今まで生きて来た事を書きだす、プログラムには未来はなく過去、今どうかだけです。
山登りのそう快感、達成感、・・・薬を使わないで山に登って楽しかったという思い、薬を使うのは14歳ぐらいからで子供の頃の遊びを知らない。
最終的にたどり着いたのは褒められたことがないということ、達成感がない、山登りすることによって達成感と握り飯のうまさを感じ始めたときに顔の色が変わる、天然温泉に浸かることによってイライラ感が消えてゆく、ミーティングで喋ると楽しかったという言葉が出てくるようになる。
人間は自然の中で回復して行く。

節分に鬼役を頼まれるが、太鼓を叩くのに園長さんがダルクの子達に叩かせませんかと言うことになり、家族がたいこを買ってくれるようになり、回復への凄い力になりました。
壇上に出て褒められる、拍手が貰える、こんなことはそれまでには無かった。
大切なのは達成感と薬ではない気持ちの良さ、それをいっぱい詰め込むために依って変われる。
ダルクを出てからのサポートはそのグループのミーティング場に行くことによってサポートになる。
日本にNA(自助)グループは300か所ぐらいあり、1500人集まる。
ハワイでは10万人集まる。
日本はようやく治療と言うことに向かいはじめた。
最後に残るのは薬物を使ったための後遺症、統合失調症という精神病、身体の異変に依っての病気を持っている人、こういった社会に戻れない人たちをどうするか。
NPO法人茨城依存症回復支援協会(通称IARSA)と言う障害者の施設を作ってもらったが、薬物で駄目になって生きられない合併症をもった人達の施設を茨木に初めて作りました。

刑務所に行くのを防ぐし、親がどうにも面倒できない子もそこで生活が出来る。
社会にもどれない子達と最終的に一緒に生活することが最終の仕事ではないかと思っている。
親はどこに相談したらいいか、警察には相談にはいけない、海外では薬物の相談窓口がある。
ばらばらになった家族が最後には家族構成が再びできる、これが最終目的です。
30分間、神様との出会い、今日何が有った、どんなふうに生きてきたか、目の前の事をきちっと評価する、その積み重ねが10年薬を使わないで生きてきたという証、それ以外に何もない。
今はダルクは47か所あり、関連施設を入れると77か所ぐらいあります。