2017年11月25日土曜日

中畑清(プロ野球解説者)         ・トークショー

中畑清(プロ野球解説者)         ・トークショー
昭和29年福島県矢吹町生まれ、安積商業、駒沢大学に進み、昭和51年プロ野球ドラフト3位で読売巨人軍に入団、その後、平成5年にジャイアンツのコーチになり、翌年長島監督を支えて日本シリ-ズに優勝、2004年アテネオリンピックでは長島監督不在の中、銅メダルを獲得に貢献、2年前まで横浜ベイスターズの監督をされていました。

矢吹町は人がいいよ。
子供の時からソフトボールをやっていました。
長嶋茂雄選手にあこがれて、ランニングに墨で背番号3番と書きました。
中学では軟式野球、キャッチャーを最初やらされて、2年生でサード。
キャッチャーではいい勉強になりました。
ジャイアンツに入ってそこそこ名が売れてきたころに、地元の役所の同級生がイベントとしてソフトボールをやろうと話を持ち掛けてきて、やることになり、矢吹町、大信村、中島村の3地区を纏めた大会を9チーム集めてやったのが最初でした、「中畑清旗争奪ソフト大会」、今年で34回になります。(震災の時は辞めています。)
少年96チーム、女子が12チームになっています。
第20回大会の時には長島さんが来てくれました。
矢吹町は人口は1万8000人ですが、2万人近く集まりました。
長嶋さんにも町の人にも恩返しができたと思います。

山の神柏原さん(箱根駅伝で活躍)もこの町でソフトボールをやっていました。
光南高校が甲子園に出場したがその時の選手は、ほとんどソフトボールをやっていた少年たちでした。
大会の費用は自腹でやっていて、最近ですよ矢吹町が補助してくれるようになったのは、名誉町民になるのは当たり前なんだから。(笑いと拍手)
前川清、新沼謙治などを呼んでイベントをやり、町民の方にはよろこんでもらいました。
長嶋さんがいなかったら今の私はいないです。
長嶋茂雄になるぞと言って持ち続けて、長嶋茂雄になるぞと声を発生して発生して行ったら家族、まわりが応援してくれて、そうしたらその環境になってしまいました。
何回も失敗しても長嶋さんは面白い選手だと、使ってくれました。
日米野球の時にも高田さんの守備固めから入って、もう1点取ったら逆転の時に、2アウトランナーセカンドの時に私に打順が回って来て、間違いなく代打だと思った、柳田さんとかいい選手がいて変えられると思ってベンチをチラチラ見ていたら、それを見た長嶋さんが駆け寄ってきて、なにチラチラ見ているんだ、お前が行くんだとケツを叩かれて、打席に送ってくれました。
行ったら逆転2ランホームランでした。

僕に野球人生が花開いてゆくのはその時からでした、入団して3年目の時でした。
もし出なかったらその年でおそらく首になっていたと思います。
長嶋さんの前では常に目立とう精神を発揮してきました、存在感をアピールするのは天才ですから(笑い)、野球は下手でも元気と声と体のでかさを最大限にアピールしました。
色々やっていたらこれは俺に似ているなと通じるものが有ったんだと思いました、気にいられてどんどん使ってもらい、普通の選手の3~4倍は使ってもらったんじゃないかと思います。
7年連続ゴールデングラブ賞をもらいましたが、周りから言わせるとプロになって一番うまくなった選手と言われます。
14年間通算1248試合、4458打数、1294安打、打率は2割9分、621打点、171ホームラン。
記録には残らないが、記憶に残る選手になりたいと思いました。

現役引退後コーチになり、1994年に日本一に貢献。
現役を辞めて3年後に長嶋さんから電話がかかって来て、コーチの要請があった。
何をやりたいのかと言われて(普通監督が決めるものだが)、バッティングコーチをやりたいと言ったら、お前で大丈夫か、バッティングは厳しいぞと言われていしまいました。(笑い)
長嶋さんは良くカンピューターと言われるがそうではない、長嶋さんも王さんもとにかくデータを凄く大事にする。
相手を知り尽くして準備を万端にしてそれから試合に臨むと言うこと、そういう準備は凄く時間をかける。
2004年アテネオリンピック時の日本代表の監督が長嶋さん、ヘッドコーチが中畑。
絶対負けられないという条件が揃っていた。
冗談も言えなかった、苦しい、俺に冗談を抜いたら何もない。(笑い)
ピリピリしたこの空気が1年半続きました。
長嶋さんが倒れたのは間違いなくあの監督就任した結果だったと思います。
1年半、夜もなかなか眠れず俺は6kg痩せました。

長嶋さんがいなくなって自分がトップになってしまって、監督代行でもなく指揮だけ取ってくれと言われました。
宮本 慎也が居てくれたおかげでプレッシャーが半分になることが出来た。
「中畑さん大変なポジション引き受けましたね、このプレッシャーは半端じゃないと思いますし、我々選手とともにプレッシャーを撥ね退けるそういう大会にしましょうよ」と言ってくれて、この言葉がなかったら指揮がとれなかったと思う。
「銅メダル」だった、周りは評価してくれなかったが、僕のなかでは物凄く評価できた。
オーストラリアにだけ2回負けているだけで、自分自身では内容は最高の野球が出来たと思う、選手には感謝している。
色んな事を経験させてもらって、人としての人生の中の大切さを学ばせて貰った1年半の時間帯だったと思います。

2020年オリンピックで福島が野球の会場になっている。
迎えるにあったって一番大事なのは県民の目、歓声、応援、球場があふれるようになることだと思います
是非成功させましょう。
聖火ランナーの最終は長嶋さんにやってもらいたい。
そのまえにバトンを渡すのは王さん。
*「栄光の男」桑田佳祐作詞作曲 長嶋引退の時に作った曲 中畑清が歌う。
「ハンカチを振り振り あの人が引退(さ)るのを 立ち食いそば屋の
テレビが映っていた しらけた人生で 生まれて初めて 割り箸を持つ手が震えてた
「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど 信じたモノはみんな メッキが剥がれてゆく
I will never cry この世に何を求めて生きている?
叶わぬ夢など 追いかけるほど野暮じゃない ・・・・・」