飯島春光(長野市立篠ノ井西中学校 社会科教諭)・教室に残る満蒙開拓の“現在”
飯島さん64歳、1930年代から終戦までの間におよそ27万人の日本人が国の政策満蒙開拓のために旧満州、中国東北部へ渡りました。
終戦直後の混乱の中8万人もの命が失われ、家族と離れ離れになった多くの子供たちが中国に取り残されました。
開拓団に全国で最も多い3万3000人を送り出した長野県には、戦後70年以上たった今も中国から帰って来る人がいます。
長野県でそうした中国帰国者の孫、曾孫を教えてきた飯島さんは家族の歴史をしっかり学び堂々と生きていって欲しいという思いを胸に日々教壇に立っています。
中国帰国者の方々が大勢住む団地があり曾孫、10数人が通学しています。
私が勤務した2000年以来、10数年変化なく毎年のように、多くは黒竜江省からの転入生がいます。
旧満州では、遼寧省、吉林省、黒竜江省が有ります。
今でも中国から長野県に帰ってきています。
県の数字では300人近い中国帰国者がいて、2世、3世までで4000人弱です。
今現場の学校に来ている人たちは4世で、赤ん坊の5世を含めると少なくとも1万人いるのではないかと思います。
彼らは日本で生まれて、普通に日本語を話せますが、家に帰ると日本語の不自由な親、祖父母と一緒に暮らしています。
おばあさんが病気のため通訳のために休んだと言うようなこともあります。
言葉の問題、文化、経済が日本とは違うので、さまざまな困難をしいている側面があります。
彼らは日本語は話せないが日本人です。
今から17年前、初めて中国から帰国した子供たちに接して、言葉が判らなくて、クラスメートから聞くに堪えないようなことを言われていたことが多かった。
中には殴り合いのケンカになることもありました。
中国では日本人と言われ、日本に帰ってきたら中国人と言われて、一体自分はどこの国の人間なんだと、振り絞るような叫びで訴えた子供もいました。
中国から帰って来た人々に対して受け入れずに、差別する心があったと思います。
心細い思いでいる転校生にたいして、冷たい態度を取っていた。
転校生が中国から来た子たちと言うことです。
歴史への無知があったと思います。
彼らがどういう空気を吸って、どういうところで生きて来たんだろうと、それを知らないと授業にならないと思って、2002年に中国黒竜江省に行ってきました。
いろいろ交流してきました。
写真を見せて話をしていたら、彼らとの距離がぐっと縮まったと思いました。
社会科新聞に自分の祖父母の事を書いてもらいました。
或る14歳の女性は混乱の中はぐれて、4人の女性たちと逃げたが村人たちに囲まれて、手に鎌などをもった人たちがやってしまえと言って取り囲んだが、村の老人が説得して4人を助け、その後3人は中国人の嫁に貰われていった。
彼女は14歳なので、おじいさんと共に過ごして、結局15歳でその家の嫁さんになりました。
翌年子供が生まれてその子が3歳になった時に、日本のお母さんと連絡が取れて、帰って来いと言われるが、置いて帰る訳にはいかず、11人の子供を産んで現地で生きてきたと言う方です。
或る人は推定2歳で衰弱しきっているところを中国人夫婦に育てられて、小学校高学年で違う村の子と一緒に学ぶようになり、子供達から中国人の生活が苦しいのはお前の親のせいだと言われたそうで、養父母の事を思ってじっと耐えていたそうです。
中国の学校の先生はこの子のせいではないと守ってくれたそうです。
又収容所に入って兄、弟1人が死んでしまって母と弟と3人になってしまって、がりがりにやせ細ってしまって死を待つばかりだった、当時15歳でここで死ぬと言ったが、中国人が入って来て助けるので家に来なさいと何度も言われて中国の家に行き、段々体が回復してゆき、翌年昭和21年に母と弟は日本に帰ることになり、その方に3カ月経ったら迎えに来るから残りなさいと言われた。
助けてくれた御礼としてお嫁になりなさいと言うことだったようで、中国でずーっと生きて来たと言う人もいました。
中国から帰った生徒たちは、彼ら自身も祖父母が中国で助けられたことはわかっていても、詳しい状況はよくわかっていないので、極限状態の中どのように失われたのか、助けられたのか、それが自分にどのように繋がっているのか、歴史をきちんと知ってほしいと思いました。
彼らは必ずルーツと直面する訳ですが、祖父母への感謝を胸に収めながら堂々と生きていってほしい。
自分の一族の歴史を知ってお互いを尊重し合える大人になってほしいと思います。
本格的に或る方の事を授業で扱ったのはその方の孫がいるクラスだった。
おじいさんは開拓団でソ連が攻めてくるなかで集団自決をすることになり、当時14歳だった彼は俺は生きて帰りたいと言うことで、回りは理解して日本に帰れたらこういった状況を説明して欲しいと言うことで、周りの人はお金も差し出してくれました。
そのことを授業で話しました。(涙ながら話始める)
クラス全員が泣きました。
「先生あれはいい授業でしたね」と言ってくれました。
他のクラスでも誤解偏見がとれて差別が無くなっていきました。
ある女性の生徒が塾で隣の学校の生徒と話をしたときに、そんなのテストにでないよと言ったそうで、彼女はテストにいい点を取るために授業をやっているのではなく、人間として絶対に忘れてはいけない事柄、知識を詰め込むことに意識を集中する事だと云っています、でも点数とは何かと云うことです。
生身の歴史を大事にしていきたいと思っています。
時節を通して学び考える、そこから得て生きる力となるものが本当の学力だと思っています。
私の村から、(東索林)埴科郷(はにしなごう)、という「大地の子」のモデルになった開拓団に6家族が行っている。
我が家の近くにも合計すると60戸程の中で15人の方が旧満州で亡くなっています。
教科書に載っている満蒙開拓は知っていたが、身近にいる人たちがそういった事実が有ったことは全く知りませんでした。
親も語りませんでした。(親から子へ歴史が語り継がれてこなかった)
学校の授業でも具体的な事例は扱ってもらえなかった。
17年前赴任した時に中国から沢山子供たちが来て、これはしっかり勉強しないといけないと思いました。
事故で5年間休むことになり、職場復帰して3年たって篠ノ井西中学校に赴任しました。
母親も脳梗塞でそちらにも行かなくてはいけなくて、遅れを取り戻すことが精一杯で詳しい歴史を教えることが出来なかった。
教師としての悔しさを強く感じていました。
彼ら自身がどういう歴史を負っているのか、周りの子にも教えてあげないとだめだと思いました。
満蒙開拓の詳しい歴史を教師も知らなかった。
自分のルーツを知らない、ルーツを語るすべがない、自分はこういうわけでここにいるんだと言うことが皆に言えない、そういった子どもたちにその子のよって立つ歴史をきちんと教えることが一番大事だと思いました。
中国人に命を助けられた事をさらさらといえばいいと言っています、そして堂々と生きなさいと言っています。
今年度末に退職することが決まっています。
6月に例年行われる学習の一環として、「自分が当時の子供なら君は満州にいくであろうか」と言うテーマの授業をしているが、今までは私一人でやって来ましたが、7クラスそれぞれ担任の先生が授業しました。
長野県の平和教育は満蒙開拓の問題を抜きに語れないと思っています。
長野県の全ての市町村から開拓団ということで満州に渡っていった。
現在でいう中学2年生全てに教師が満蒙開拓青少年義勇軍への志願を呼び掛けていったという歴史がある訳です。
これからも学習への協力はしたいと思っています。
満蒙開拓の学習をするということは戦争の時代の学習をするということで、戦争の様々な側面にも目が行きます。
沖縄戦、特攻隊、原爆、長野空襲、松代大本営、アウシュビッツ、インパール作戦など多岐にわたって調べました。
人を愛する人間として、どう生きることが本当に人間らしい生き方なのかと言うことを、自分の頭で考えて行動できる人になってほしいと思って授業をしています。
開拓団の入った土地の多くは中国人が耕していた土地で、自分たちの土地を奪った侵略者だと言うことで、それにたいする反感が襲撃の背景にあったと思います。
一方、命を助けられた人もいて、国と国の関係ではなく人と人の関係の中で一人の人間としてお互いを大切にしながら生きていきたいと思います。
満蒙開拓の授業の発展として、自分の家でも家族の戦争体験を聞こうね、と呼びかけています。
事実を自分の目でしっかり見つめて学んでほしい、自分の頭で考えて行動できる大人になってほしいと思います。
どういう未来を作っていったらいいのか、そういうことを考えられる子供に成っていってほしいと思います。