金満里(劇団 態変) ・身体障害者のパフォーマーを率いて36年
1953年大阪生まれ、在日2世で65歳。
3歳で小児まひの為に重度の障害を持ちました。
その後家族の支えもあって通信制高校を卒業しました。
障害者が主体のコンサートや寸劇を企画実施した後、1983年に劇団「態変」を主宰する自らが書いた、「色は臭えど」を京都や東京で公演し大きな反響を得ました。
舞台に登場するのはすべて障害者で、あえてレオタード姿で立ちパフォーマンスをします。
評判は海外まで伝わりアフリカやヨーロッパでも公演しました。
今年2月8日から11日までの4日間東京の下北沢の「ザ・スズナリ」で「ウリ・オモニ」(私のお母さん)という朝鮮古典芸能の演者だったキムさんの母を描いた作品のソロ公演にも挑みます。
独自の演出に込めた思いや、今回の「ウリ・オモニ」の公演などについて伺います。
始めた時から私のアイディアでレオタード姿にしました。
障害を隠さずに自分で認めて自由に表現したいと思いました。
普段私たちは車いすで外に出ても、あからさまに見てはいけないという視線があります。
そんなことしなくていいのにと思います。
見せて行っている半面、それを見ているあなた方の視線をこちら側は見ているんだよと、そういう意思表示でもあるんです。
異質なものではなくて、自分の中にもある、幼い記憶だとか生れたての赤ちゃんの感覚で忘れていたものが掘り起こされたらいいなあと思っています。
母は朝鮮古典芸能の演者でしたが、私が生れた時には現役を引退していたので舞台を見たことはないです。
戦争中の日本の全土をくまなく巡業して、朝鮮古典芸能だけをやる唯一の劇団でした。
そこの看板女優で、舞、楽器(琴、たいこなど)、歌(古典民謡)などなんでもやっていました。
3歳のころに小児まひになりました。(重度)
家ではほとんど寝たきりぐらしです。
私は10人兄弟の一番末っ子でした。
踊りが好きで親からは期待されていたようでした。
7愛から17歳まで障害児の施設に入っていました。
病院形式で週に一回の面会と月一泊二日の外泊が許可がされているだけです。
施設は中学校までで、施設を出て高校に行きたいと言ったら周りが驚きました。
自分で寄宿舎生活ができることが条件で、無理だと言うことになりました。
兄が新聞で見つけて通信制高校を行くことにしました。
或る後輩からの或る運動の会合があるから来て見ないかと誘いがあったが、健常者の善意で外に出るとか、善意の暇つぶし的に介護に来るというようなボランティアには拒否感がありましたが、健常者の友人が連れて行ってくれるという事でした。
青い芝の会、日本脳性まひの人が中心になっている運動体でした。
或るとき分裂して崩壊しまして、失意のどん底でした。
通行者に自分で書いたビラを手渡したりしているうちに、一般の人の反応を研ぎ澄まして聞くようになりました。
一般の人に声を掛けて階段を上げてもらったりおろしてもらったりしました。
今年は障害者年ですねと言ってくれた人がいました。
官制でお祭りという事で働けるとかスポーツできるとか、障害者でも今だけできると言うことを売り物にしていたコマーシャルをやりだしていました。
これはやばいと思いました。
寝た切りの障害者の処から世界観が見えないといけないだろうと、最もできないと言うところに起点をおいた価値観、そのものが大事だと言う脳性まひの言語障害の言葉から出て来るペースを読みとれという事が一番だったので、「国際障害者年をぶっ飛ばせ81」というイベントをやろうと持ちかけました。
ロックバンドコンサートで5グループ、寸劇は大学の教室を借りて障害者の人の台本で健常者と一緒にやるという形でした。
私はコンサートに参加しましたが、沢山の人が集まりました。
寸劇で障害児殺しを問題にした脚本を友達が書きました。
私がやるんだったら台詞を使わず、身体障害の身体だけを前面に出す、何かを感じ取るものをやりたいという動機になって行きました。
「色は臭えど」を上演しました。
健常者側からは障害者側が持っている世界観が判らないんだ、見いだせないんだと言う事が判ったので、それを私ら側の世界観をそのままぶつければ、驚くのではないかと思って作った芝居でした。
障害児が世の中に一杯生まれ出て来る、その事が健常者にとって豊かでもどれだけ恐ろしいか、恐ろしいけれどもそのことを受け留めて行くプロセス、ぎくしゃくが物凄く面白くてそこにもっていきたいと思いました。
馬鹿受けしました、そこまでやるかという感じでした。
一回こっきりで辞めようと思いましたが、翌年にフェスティバルをやるので東京公演しないかという声がかかりました。
2月8日から11日までの4日間東京の下北沢の「ザ・スズナリ」で「ウリ・オモニ」(私のお母さん)を公演します。
母親と娘の関係、障害児になったという事で人生が変わってくる。
母親の期待にそえないという事で、母が嘆き悲しむ自分の人生話を来客にはするが、溺愛は変わらない。(?)
障害になったことによって、ようやく本当の意味で違うものを作らなければいけない、と言う事を気がつきだしたというのが、ずーっと追ってきた人生なんです。
母になったり、娘になったり、そういう眼差しで人生を見つめるような内容です。
大野一雄さんの監修を受けてやりました。
親子の縁は切っても切れない、だからこそ切るんだと言う事を私は思いますけれど、親殺しは物凄い私の持論なんです。
いつまでも親を大事にという事を美徳にしていては、自立というのは本当に見えないと思っていて、私の方は地で行ったと思います。
私は母の死に目には会えないと思っていました。
公演中に母から電話があって、「満理ちゃんあいたいねえ」と言われましたが、「公演が終わるまでがんばってや」と言ったら翌日母は亡くなりました。
死んだ母親のことを作品にしないかと、夫から言われて作りました。
母はどういう気持ちで日本に来たんだろう、どういう気持ちでやってたんだろうと、言う事をやっていると深い思いがあったんやろうなあと思います。