荒俣宏(作家) ・【私のがむしゃら時代】
1947年昭和22年生まれ東京の出身。
少年時代は周囲の自然を好奇心一杯に楽しみ、その好奇心が読書につながり中学、高校時代は昼飯代を本代に回すほど大好きだった、荒俣さん、現在は博物学者、図像学研究家、小説家、収集家、神秘学者、妖怪評論家、翻訳家、タレントなどで活躍されています。
戦後すぐに生まれで貧乏で中学まではいかせてくれるだろうけれど、その後は近所の町工場に行くのかなあと思っていました。
板橋は町工場だらけでした。
遊びから勉強まですべて自分でやるような時代だったと思います。
小学校3年位までTVがない時代だったので、身の回りの自然をTVの様に楽しんでいたと思います。
海に行って色々遊ぶのが楽しくて、中学には自分一人で行くようになりました。
ブリキのバケツを持って行って、ウニ、カニ等を獲ってバケツに海水を入れて帰ってきて、ビショビショになって帰ってきたことをよくやりました。
冬の海に入って生物を観察していたら、警察が来て何をやっているんだと怒られたこともあります。
水死体が浮かんでいると思って警察に連絡したようでした。
何かをやる為には何かを捨てなくてはいけないという事で、いい子になることは止めました。
あの子は変だと言われていました。
いえは店をやっていましたが、店では活字は新聞位でした。
幼稚園の最期の学年の時に貸本屋が出来、見たことのない本がずらっと並んでいました。
半分が漫画で絵で読めるので読みたいと思ったが、小学校にならないと会員になれないという事で、入学式の後早速2,3冊借りて来ました。
手塚治虫の漫画でした、これが良かったです。
こういう世界があるんだと思いました。
活字が読めるようになって、めぼしい漫画はほぼ読んでしまい、少年ものの活字本がありました。
これがまた面白くて、毎日どっちかを読んでいました。
外国の話が大好きにもなりました。
日本大学第二学園中学校に入りました。
昆虫採集とか、絵を描いたり、小説を書いたり、余り親の言う事を聞かずにやっていました。
こづかいは本につぎ込みました。
バス代も本代にするために、歩いて行ったり自転車通学にしました。
お昼のお金も本代に回せないかと思って、昼はほとんど飲まず食わずでした。
その時間には図書室に行って時間を過ごしました。
中学3年性の時に、ある先生の訳す本が好きで手紙を出しました。
お化けの本は日本ではほとんど読まないので、アメリカ、イギリスなどはお化けの本などがいっぱいあるので、英語の本なら一杯有るので英語を読みなさいと言われて、英語の本をいくつか紹介されました。
しかし僕は英語が苦手でしたが、英語の勉強をがんばりました。
高校1年の時に洋書のある丸善に行って、こういう本はないかと聞いて、今は読めないが読める様になるために好きな本を買いたいと言う事で、お化けの本を数冊買って読み始めました。
苦手な英語が段々スラスラと読めるようになり、日本語よりもスラスラ読めるのではないかと思うほどになりました。
それが翻訳家としての下地になったと思います。
人からは変なことをやっていると思われていました。
女の子を紹介されたことはありましたが、全く話が通じませんでした。
小泉八雲がね、とか言っても駄目で女の子がいなくても死ぬわけでもないしと思うようになりました。
自分の進む道に対しては女の子とかに関わらず眼をつぶろう、我慢をしようと思いました。
与謝野晶子の乱れ髪を読んだ時に、君死にたもう事無かれで、「若き血潮に触れもせで・・・」見て暫くどうしようかと思いました。
自分は地獄に落ちたんだと達観しました。
慶應義塾大学法学部に入学、一番最初につかったテキストが神秘学でした。
一気に自分のフィールドが広がりました。
大学卒業後サラリーマンになりました。
好きなことはいつでもできるだろうと思って、じっと我慢をしていて好きなことをやろうかと思い、日魯漁業(現在のマルハニチロ)に入社しました。
大学では先生とよく話が出来ましたが、会社では隣の人とも話ができないという事を知りました。
ハンコ、帳簿のつけ方など苦労しました。
経理、営業などをやっていて、コンピューターを導入されるようになって、昼は社会人の言葉を使ってプログラマーとして機械言語を使い、夜は大学生からずーっと翻訳の仕事をしていました。
周りはコンピューターのことは判らないので、壁に突き当たっても聞くことはできないし、月に200時間残業をしたこともありました。
その間翻訳の仕事もしました。
平均睡眠は2時間位だったと思います。
早朝4時、5時に寝て起きるのは7時で、社会人の言葉と、機械言語と、文学と一日を3倍楽しめたんじゃないかと思っています。
本はずーっと相変わらず買っていました。
結果的には会社で毎日修行をしていたようなものです。
会社でリストラがあり、辞めないためにコンピューター室から北方トロール部に移されてここは24時間体制で、これはやっていけないと思いました。
会社を辞めて執筆をやっていたら、朝はいつ起きてもいいし、好きなだけ寝ずにできるし、好きな本も読み放題だし、気が付いたら3年が過ぎて、結局作家を続けました。
妹は漫画家になり、弟は魚の研究を始めていたが、兄弟だれも結婚していなくて、狭山に家を設けて嫁さんは来ないのかといわれて家に帰りにくくなって、会社で徹夜をするようになって、20年位は平凡社で暮らしていました。
コンクリートの床に段ボールを敷いてそこに寝て、食事はコンビニで買って、1週間に一回位近くの風呂屋に行っていました。
「世界大博物物図鑑」全7巻を執筆。
1985年小説『帝都物語』350万部売れて、お金が沢山入ってきたので、買いたかった1000万円の博物学の古書を買って「世界大博物物図鑑」の資料にしました。
今は嫁さんが来たが家では、寝る時間が2~3時間で色んな事をやっています。
夜、海に潜って動き回るプランクトンを観察することにはまっています。
5年前からやっています。
写真に撮ってコレクションにしています。