2019年2月26日火曜日

山本寛斎(デザイナー・プロデューサー)  ・熱き心、今も

山本寛斎(デザイナー・プロデューサー)  ・熱き心、今も
75歳、1967年23歳でファッションデザイナーの登竜門である装苑賞を受賞、71年にはロンドンで日本人初となるファッションショーを成功させ、一躍ファッション界の寵児となりました。
その後、挫折もありましたがパリ、ニューヨーク、東京と3カ国のコレクションで作品を発表し続けて世界にその名を轟かせました。
1993年からはファッション、映画、演劇、コンサートが一体となったスーパーショーに力を注いできました。
今年ブランド創設50年になると言う寛斎さんの軌跡をたどり、その衰えを知らぬ情熱と新たな挑戦について伺います。

来月から北極に行きます。
20年以上前にマキンリーで植村直己さんがTVに出ていた時のテーマが、スコットさんというイギリスの探検家とアムンゼンさんというノルウエーの人のドキュメンタリーをやっていて、植村さんはコメントをやっていました。
探検家の壮絶な生き方でした。
私が一番行きたくないところが寒いところと、厭なことという事で北極に行くことにしました。
北極冒険家・荻田泰永さんに指導を受けながらやって見ようと思います。
マイナス40度の体験は無くて、恐怖から克服するために旭川に行きました。
北極へは2週間ぐらいの予定です。
ほかに準備として一日一時間半毎日歩いています。

小さいころから自分がかっこよくなったかどうか判っていたようです。
7歳の時に両親が離婚して2人の弟を連れて、横浜から3人きりで高知県まで旅をして、行き着いた先が児童相談所で、かなり厳しい生活をしました。
18歳で母親に会いに行きました。
母は近所のお嬢さんに針仕事を教えていました。
待っている間ファッション雑誌を見て、その内容に受賞をしたら才能があると言うことだという思いがありそれを取ろうと思いました。
著名な先生の弟子になって服を縫う事を修行することにしましたが、大学に行っていたので退学届を21歳の9月1日に出してそのことは克明に覚えています。
夜の10時に家に帰って1時頃まで装苑の本から丸写しで絵を描いていました。
祖母からミシンを国元から送ってもらって、修行中は貧しい厳しい時期でした。
給料が当時1万2000円で、家賃が6000円で3食たべるのに一日200円、一回70円そこそこそこで、天ぷら定食を食べたりしていました。
シャンソンコンクールで受かったらパリにいけると言う事で、駄目もとで行きましたら、
「愛の賛歌」を英語でやったら見事に鐘が一つで、1位は加藤登紀子さんでした。

コシノジュンコ先生の処にお針子として入ったんですが、当時装苑賞は公開でした。
文化学園の学生は同級生の応援がありますが、私はないので自分で応援するしかなくて自分のモデルに自分で割れんばかりの応援をしました。
予選通過は1位でした。
最終的には1位になることができました。(1967年)
カレンダーの仕事が舞い込み、30万円になりました。
イギリスに旅行してキングスロード(表参道の様なところ)を行ったり来たりしました。
そうしたら肩を叩かれて恰好がいいからスタジオに来て写真を摂らして下さいと言われて、世界のかっこいい青年、と言うなところに10名写った中の一人に「ライフ」に出てしまいました。
当時私の格好は頭は金髪で服も靴も蛇皮で国籍が判らない恰好なので、友人から日本のアイデンティティーを出さないと行けないと強く言われて、帰国すると頭は坊主にして、ロンドンブーツでほぼ真っ赤ないでたちをしました。
ロンドン、ニューヨーク等ではかっこいいと言われましたが、日本ではあまり芳しい評価は無かったです。
違いは何なのかと思ったら、個性を尊重するか否かという事でした。

イギリスで勝負を決めようと思いました。
1971年にロンドンで日本人初めてとなるファッションショーを行いました。
歌舞伎を初めてみて、様式美、色彩美、演出方法をふんだんに入れて、進行していきました。
入魂のショーだったと思います。
大変な評判になりました。
イギリスのデヴィッド・ボウイという青年が世界に出て行くという事で、舞台衣装のお手伝いをすることになり、ニューヨークの舞台からのアメリカのツアーなどで、派手なパーフォマンスで行い私自身の作品が「やった」という思いがありました。
以後、インターナショナルでモテモテになりました。
パリでショーをやろうと言うことになってやったが、本来の服だけで勝負しなさいと言う厳しい意見を言われました。
生まれて初めての大きな失敗だったので1年間は完全に力は出ませんでした。
社員もどんどん辞めて行き、取引先まで影響しました。

アメリカでトランクに私の作った最新作を売り込みに行って、徐々に注文が入るようになりました。
パリコレは1回のショーで1億円近いファッションをつくる費用がかかり経済的にもかなりの負担です。
クリエーションを評価してくれるので、日本人の一人としてやり甲斐のある場所で、情熱を届けるのには最高の場所だと思っています。
何十人のデザイナーが発表して1~5番ぐらいまでは新聞に発表されるが、3位以上に入った事が無かった。
自分の才能が足し算になっていないと思いました。
演出をしながらメッセージを伝えるのが私の正体だと思って、表現したいのはファッションだけではなくてドラマチックな表現をやるべきだと思いました。(スーパーショー)
場所としてモスクワの赤の広場を選びました。(1993年)
世界でやったことのないことでした。
12万人という人が集まって、世界中でだれもやったことの無いことをやったと思います。

95年にはベトナムのハノイ、97年にインドのニューデリーで行いました。
企業からの協賛金は手紙などいろいろ工夫して7,8枚の画用紙にきれいな写真を張ったり、文章も考えて、社長に会う事が出来たのが7割程度で、そのうちの3割程度には賛成してもらい自分で集めることができました。
東日本大震災の時は、オフィスには本が多くて、一気に倒れ掛かってきましたが、心配なのはやはり原発でした。
数日たってからチェルノブイリに行ってみました。
一番驚いたのは何十年も経っているのに、一回ぱっといったら何にもない、こんなリスクのあることってあるのかと、人間がこういうことに加担しては間違いだと思いました。
東日本大震災の鎮魂のイベントも行いました。
1万年続いた縄文時代に興味があり、悠久の時、これを何らかの形でショーの中で工夫をしていきたいと思っています。
知らないことがいっぱいあるので今後もこれらを満たしていきたいと思います。