大和田獏(俳優) ・福井発 「幸せに生きる」とは
福井県敦賀市出身、兄は俳優の大和田伸也さんです。
民放ドラマ「こんまい女」でデビュー、芸名の「獏」は同ドラマの脚本家・花登筺から、「夢を食べて夢のある大きな役者になれるように」という意味で「獏」という芸名を与えられた。
主な出演作に「おんな太閤記」、「渡る世間は鬼ばかり」、「相棒」等があります。
民放情報番組「ワイドスクランブル」を11年間務めました。
現在も映画、舞台、TV等多方面で活躍中です。
現在68歳の大和田さんに原点である故郷での経験や、その後の俳優人生等自身の人生を振り替えりながら、幸せに生きることについて語っていただきました。
故郷を離れて50年以上になりますが、何十回となく帰ってきました。
中学3年の時のクラスが仲良くて、いまだに同窓会をやっています。(4年に一度)
子供の頃、ものは溢れていなかったが心が豊かだったと思います。
四季折々の自然があって、時代も子供に寛容な時代だったと思います。
中学の多感な時に敦賀の港に行って、もの思いにふけると言うようなことがありました。
そんな中で自分の感性が作られていったと思います。
台本の中に全てが書いてあるのではないので、僅かなヒントの中からこの人物はどういう人物で、今なぜこういうセリフを発するだろう、どういう感情なんだろうかと想像するわけですが、想像力にとって大切なのはこのころに育ったのかなと思います。
両親に感謝をしています。
父は敬虔なクリスチャンで自分のことよりも家族のことを考える人でした。
父はサラリーマンでしたが、残業はしないで必ず6時になったら全員で食事をして、そこでいろんな話をするのが日課でした。
兄、姉、伸也、僕の4人兄弟です。
夕食後は家族でゲームをしたりトランプをして遊びました。
母は遊びを色々工夫をして遊びました。
誰が書いた文章(短い文章)なのかを当てることなどもやっていました。
夏休みは8月の土曜日の午後に七輪、炭、食材を持って、すき焼きをやりました。
両親は子供にとっての人生の指針になっていたと思います。
家族が仲良く相手を思いやる気持ち、お互いが支え合う気持ちは一番幸せなんじゃないかと思います。
小学校の頃は同級生を笑わせることに命をかけているようなところがあって、しょっちゅうふざけて笑わせていました。
目立ちたがりやでした。
児童会会長や、中学では生徒会長に立候補したりして、生徒会長もやりました。
弁論大会にもでて、2年連続で優勝しました。
今より子供は自由だったと思います。
1クラス50人と多かったが、クラスの結束力はありました。
故郷の一生懸命生きる思い、勤勉さ、まじめさそういったものが、繋がったと思います。
団塊の世代のしっぽに当たり、先輩浪人との戦いもあり、厳しい倍率の中で受験を失敗してかなり落ち込みました。
その時父が励ましてくれました。
色んな壁にぶつかるがそこで絶望してはだめだ、人が行く道の先には絶対光がある、光が射すんだと言う事を信じろ、そのためには夢を持て、そうするとそこに希望が生まれて勇気が出る、その勇気がきっと夢をかなえてくれるからと言ってくれました。
夢に向かって一生懸命生きていれば、人はそれを認めてくれて困った時には手を差し伸べてくれるよと、その言葉が役者の世界に入った時に、へこたれそうになった時に、大きな力になってくれたと思います。
津川雅彦さんとか小林桂樹さんとかから、貴重なアドバイスをいただきましたが、一生懸命やっていたから手を差し伸べてくれたのではないかと思います。
僕たちの仕事は終わりがない、正解がない、ゴールのない仕事だと思っています。
常にチャレンジだと思っています。
若いころはがむしゃらに何でもかんでも手にしたいと言うような願望がありましたが、65歳ぐらいからこれからは自分の中に蓄えたものを熟成したいと思う様になりました。
頭で役をつくるのではなくて、腹の中で役をつくると言うか、自然とそうなって行くように成熟させたいと思っています。
役者になってよかったことは、人の気持ちを察することができるようになったことだと思います。
人から大切にされることにもつながって来る。
それがしいては自分の幸せに成って行くような気がします。
贅沢をするのもしあわせ、ボランティアで活動してそこから得られるのも幸せで、人それぞれだと思いますが、人とのつながりを大切にする、人を大切にする、人から大切にされる、お互いが思いやれる状況にあるというのが、本当に幸せなんじゃないかと思います。
要は人とのつながり、人とどういう関わりを持って行くのか、どういい絆を作って行けるかが一番の幸せだと思います。