講談師 神田 蘭
夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。
講談による相馬黒光の紹介
「本名 相馬(旧姓 星)
明治9年旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台に生まれた。
維新後生家は没落、貧しい生活の中で教会の日曜学校に通い西洋の文化に触れる。
横浜のフェリス英和女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に進学。
明治女学校に転校、島崎藤村から学び自ら文筆活動を目指す。
ある教授から良の性格があまりにも強かったので、貴方の文学の才能を黒で隠しなさいという意味を込めて、黒に光と書いて「黒光」という名前をいただきました。
卒業後夫の相馬愛蔵と結婚。
愛蔵の郷里安曇野に住んだ。しかし、黒光は養蚕や農業に従ったが健康を害し、また村の気風に合わなかったこともあり、療養のため上京し、そのまま東京に住み着くことになった。
1901年東京本郷に小さなパン屋中村屋を従業員ごと買い取り、パン屋を始める。
1904年クリームパンを開発する。
明治42年新宿に移転する。
夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案する。
当時新進気鋭の芸術家たちが集まり、「中村屋サロン」と呼ばれるようになる。
若手彫刻科の荻原碌山は黒光に想いを寄せるようになるが、人妻でもあり、狂おしいほどの恋情を抱いた碌山は若くして死去。
碌山のアトリエに残った裸婦像は、もがきながらも上を見上げている女性の像で、黒光はこれを観てこれは私自身だとその場で思わず号泣したそうです。
碌山の作品『女』像は近代彫刻に名作としていまだに残っています。
ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をたり、亡命したインド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボースらをかくまい、保護した。
エロシェンコからはロシア料理ボルシチを習い、ビハーリー・ボースからはインドカリーを習い、それらが今も愛され名物料理となっています。」
日本の和菓子とヨーロッパのパンをくっつけるのは日本人のアイディアですね。
仙台は色々な人材を輩出している。
黒光はキリスト教信仰を持ち、12歳で洗礼を受けた。
日本はキリスト教の布教が難しい国だと言われる。
お茶とキリスト教は相性がいい気がします。
生活に潤いを、みたいなことを考える人が違う教えを聞いてみようかなとなって、キリスト教に入信するという事が多いと思う。
ミッションスクール宮城女学校に入学するが、アメリカ式教育の押しつけに反発する生徒たちによるストライキ事件に連座して自主退学する。
横浜のフェリス英和女学校に入り、明治女学校に転校する。
「黒光」の号は、恩師の明治女学校教頭(巌本 善治)から与えられたペンネーム。
国木田独歩の奥さんが黒光のいとこになるので、交わり文学への視野を広げた。
女性が社会進出をする時に手っ取り早いのが恋愛関係ですね。
恋愛関係で男の人と5分に渡り合う、ということになると恋愛関係の方で発展的になるのかもしれない。
平塚 らいてうもそうでしたが。
1898年長野県でキリスト信者の養蚕事業家として活躍していた相馬愛蔵と結婚することになる。(22歳)
愛蔵の郷里安曇野に住んだが村の気風に合わなかったこともあり、健康を害し療養のため上京し、そのまま東京に住み着くことになった。
白いパラソルをした年上の綺麗な女性が声尾を掛けてきたと、荻原碌山には書かれていた。(安曇野の頃の出会い)
中村屋を従業員ごと買い取り、パン屋を始める。
喫茶部の新設、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。
愛蔵が愛人を作り、碌山がその相談相手になる。
碌山は欧米に渡り勉強して、オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。
碌山の作品『女』像 苦悩だったりして、手を後ろに縛られてひざまずいているが、顔は上を向いてどんなに苦しい時も戦う女性の魂みたいなものを描いている。
子供達も碌山になついていたと言われる。
芸術家たちの後押しをしたが、究極的には芸術みたいなことを黒光自らやりたかったのではないかと思います。
イギリスが捕まえようとするラース・ビハーリー・ボースをかくまったりする。
1918年に黒光の長女 俊子がボースと結婚した。
黒光は世界的視野をもっていた人でもあったと思う。