宗茂(元マラソンランナー)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪マラソンランナーの証言
大分県出身66歳、双子の弟猛さんと宮崎県の実業団チーム旭化成で活躍し、日本で始めてマラソンで2時間10分の壁を破りました。
オリンピックではモントリオール20位、モスクワでは日本は不参加、ロサンゼルス17位と3大会連続で代表となり、1970~80年代にかけて日本を代表するマラソンランナーでした。
引退から30年、今は左膝が悪くて走ってはいませんが、90分9~10km歩いています。
体重は13,4kg増えています。
18歳~35歳までの17年間の現役時代、26回マラソンを走りました。
6回優勝。
1978年別府大分毎日マラソン、25歳 マラソン9回目。(初出場)
2カ月前福岡国際マラソンでは53人がゴールしたが52位だった。
別府大分毎日マラソンでは2時間9分5秒6で優勝する、世界歴代2位。
福岡国際マラソンの時には、足を怪我したが治ってきたので参加を決定、練習不足だったのでスタートから体が重かった。
途中から完璧にレースを投げて、折り返してしばらくして止めようと思ったが、沿道から罵声が飛びなんとかゴールしたら52位だった。
その後がむしゃらに練習しました。
そして別府毎日マラソンに参加しました。
行きは追い風で体も軽く14分50秒台で走れました。
30kmでも世界最高記録を40秒上回っていた。
調子の良い時には給水を取るなと言われていた。
ゴール迄一回も給水を取らなかったので、もし取っていれば世界記録更新もあったのではないかと後で思いました。
25km過ぎたころは2時間6分台が出るのではないかと思いました。
ロスオリンピックの最終選考の福岡の時には自分の最高の状態を作りました。
1983年12月5日福岡国際マラソン。(ベストタームを出してから5年目)
瀬古利彦選手、サラザール、イカンガー等などが参加。
35kmではサラザール、イカンガーがならび1秒差で瀬古、宗兄弟等7人が集団となる。
40km、瀬古、イカンガーがならんでトップ、1秒差で宗猛、サラザール、2秒差で伊藤国光、5秒差で宗茂と遅れてしまう。
自分が思ったよりもスローペースで展開して、35km位から離されてしまった。
40kmイカンガーがスパートしたのをみて、自分も頑張ろうと思って、追い掛けて行って、弟も抜いて最終的には3位になり、弟が4位となる。
自分が思っていたように最初から行くべきだと思ったが、オリンピックの最終選考でもあり、慎重になってしまったが、そのことが悔やまれた。
瀬古選手が優勝して、宗兄弟がロサンゼルスオリンピックの3人に内定した。
1985年10月北京国際マラソン。
241人が出場、折り返し点過ぎてヒュー・ジョーンズ(英国)、宗兄弟の競い合い。
40kmで宗茂選手がスパート、ジョーンズが遅れて2人なり、トラックレースとなる。
残り50mで猛選手がスパート、茂選手も追いかけ二人並んでゴールとなる。
2時間10分23秒 同タイムであったが胸の差ひとつという事で宗茂が優勝となる。
ゴールした時には私は追いあげて両手を上げたが、テープを切ったのは弟の方が早かったと思う。
小学校低学年のころは引っ込み思案の子でした。
小学校4年生の時に長距離が早いのが判ってきて、それから色んな方向に積極的になりました。
中学1年の時には短距離の先生に習っていたが、その後は先生の指導はなかった。
高校の時には監督の家に3年間下宿しましたが、最高の環境で練習させてもらいました。
全国高校駅伝に初出場して8位になりました。
私が1区、弟が3区を走って3区までは2位でした。
高校総体、兄弟とも1500mは予選落ち、5000mは13位、16位。
1971年旭化成に入社して陸上部に入る。
23歳でオリンピックランナーに成長する。
入社2年目に初マラソンで1,2位を兄弟で取ることができた。
その時金栗 四三さんからこれから日本を引っ張って行く選手にならなければ駄目だぞと言われました。
ロサンゼルスが終わってから、ニュージーランドの合宿ではアップダウンの道125km走りました。(9時間位)
給水せずに走って3km手前でこのまま死ぬんではないかと思うほどへたばり、リタイアした事があり、つくづく給水の重要さを知りました。
周りの選手がどんな練習をしているのか、情報が入らない中でやっていたので、相手の選手に負けないような練習をしようという事でやっていました。