水谷豊(俳優・歌手) ・【私の人生手帖(てちょう)】後編
受験に失敗し、挫折の中で決行した家出の詳細、戻って俳優として歩き始めても結婚しても気持ちが定まらないなか、俳優として仕事をしてゆくと腹を決めたある出来事、そして60歳を過ぎて満を持して取り組んだ映画監督への強い思いなど、まさに人生手帳の一ぺージ一ページにつづられたその時どきの思いを伺いました。
岸田森さんを尊敬しています。 僕のことを気にいってくれました。 「一番高尚の芝居とは何か、それはその人そのものに見えることなんだよ。 それが一番高尚なんだ。 どんな役をやってもその人そのものに見える。」と言われたことが、一番の言葉として残っています。 目指すのはいつもそれです。 岸田森さんが若くして亡くなり、それで全く仕事をする気がなくなってしまって、2年近く仕事をしなくなってしまいました。(33歳ごろ) NHKの深町さんから一緒にやりませんかと声がかかって、「ドラマ人間模様」というドラマに出演することになりました。 いろいろいい作品に出合いましたが、それにはまずいい人に出会ったなあという思いがありラッキーだったと思います。
アングラで俳優をやっていた時代の蜷川さんとの出会いもあり、「相棒」で小劇場を借りたときに、30年ぶりに会って、涙を浮かべて抱き合いました。 やるたびに観に行かせてもらっています。
自分でもどこからこんなエネルギーが出てくるんだろうと思います。 思いを持つことは誰でもできると思うんですが、持ち続けることはできない、持ち続けることが出来たらそれも才能だと思います。 小さいころからなにかに向かうと夢中になっている自分はいつもいたと思います。
2019年公開の監督2作目『轢き逃げ 最高の最悪な日』では脚本も手がけました。 人には興味があり、人って何だろうと永遠のテーマだと思います。 それが表現できる時が面白くて、コメディーでもいいし、シリアスに描いてもいい、見る側として好きですね。 映画では加害者の心理、人を描くというところに興味が行っているんだと思います。 監督は全てに責任を持たなければいけないと思います。 そのためにはいい人と出会いたいという思いがあります。 方向性をまず監督が示さないといけない。 役者と監督では・・・・うーんやはり監督ですかね。
性格的には終わってしまったことは、何の苦労もないタイプであり、いい思い出になってしまう。挫折と言われると、10代の時にアメリカに行けなくなった、大学を落ちたさあどうしたらいいかという時が今思うと一番だったと思います。 18歳で大学を落ちて2か月間家出をしました。まずは公園とかに野宿しました。 夕方飛び出して、夜中じゅう歩いて、高尾の山も越えて、車がきて乗せてくれて、おじさんの釣りに付き合って、その後泊めてくれて翌日2000円をくれて、ボーリングをやって残りが400円になって、パチンコをやったら出るわ出るわで3日間やりました。 洗面道具を買って銭湯に行って、新聞をたくさん買って敷いて諏訪神社で野宿して、3日間で1万8000円ぐらいあり、そこから2か月帰ってこなかったです。 その人に出会わなかったら全く違った人生を歩む事になっていたでしょう。 人との出会いですね。
娘(趣里)には芝居の世界には来ないようにと言っていましたが、イギリスに留学して、午前中勉強で午後バレエをやっていましたが、足を骨折したりアキレス腱を切ったりして、続けることが無理という事で早めに帰ってきて、大学に行き始めました。 自分も舞台の世界に行きたいという事で、結局認めることになりました。 僕と蘭さんとも全く違っていて見ていて楽しいです。 演技のことは聞いてきたら話しますが、めったに僕からそのことは話さないです。
いろんな意味で豊かにしてくれる人たちと出会ってきたことが出来て良かったです。
今とちょっと先のことしか考えていないです。 60代の内にもう一本撮りたいと思っていますが余り時間がないですね。 50代でバランスが取れてきたような気がして、60代になって残り少ないが、70歳代になったら何に向かおうとする自分がいるのか、楽しみです。